生きているということ、それは死んでいるということ

死はすべて消えてしまうことのように感じる。死への悲しみや苦しみはなかなか癒えない。

今年の震災の死亡不明者の数は25000人を超えている。そして生き残った被災者の1人がつぶやいた言葉がとても印象に残っている。

「地震や津波はなんとか復興できるが、原発事故は無理だなあ!」

放射能物質があるところに、戻って来られるかは難しいからだ。

 強い放射能を浴びると、命の伝達する遺伝子そのものが破壊されてしまうため、再生できない。人の身体は日々新陳代謝をして、細胞の一つ一つは生まれ変わっている。しかし、放射線を浴びると、その細胞の遺伝子が犯されると、例え再生しても、同じ健康細胞は生まれないで、癌のような自殺細胞に変形してしまう。

 我々が人間らしく生まれ育つためには、人間らしさの形状を記憶伝達する遺伝子が再生されることが必要だからだ。地震や津波は自然災害であるため、生き残った被災者の遺伝子は破壊変形されることはないが、原発災害は人工災害であるため、生き残った被災者だけでなく、その子孫にも遺伝子の変形が遺伝していくことになる。

 放射線を浴びても当初はほとんど何も起きていないが、時間がたつにつれて、細胞が再生できずに破壊され死んでいく。

 原子力そのものが、物質の最小構成要素である原子をその中性子で分裂させて生まれるエネルギーだから、命の遺伝子だって、破壊されてしまうのは当然のことだろう。

 放射線は人間の遺伝子だけでなく、どんな生物の遺伝子さえも破壊変形させてしまう。そのため、原子力を使ったエネルギー開発は、地球上の生物すべてを破壊変形させてしまうという、生命自殺遺伝子製造機なのである。

 そもそも「生きているということ」はどういうことなのだろうか?

 それは「死んでいるということ」でもあるのだ。こんなことをいうと、気が触れたと勘違いされるかもしれないが、よく生きているということが何かを吟味していると、生と死の境がはっきりしなくなってくるのだ。

 これは老子の「不知の知」ソクラテスの「無知の知」のように、知識は相対的認識されるからである。私達は物事を知ったり、判断したりする場合は言葉を使って考える。言葉は物事をシンポル化させて、その組み合わせからなっており、それを構成する展開の基本は相対的な事象である。それは人は男女の相対的な姿からの展開と同じである。

 生きていることを知るには死んでいることを元にしなければ認識できない。死んでいることを知ることもまた生きていることを元にしなければ認知できないのである。

 では、相対的な事象を分ける境とは何か? それは理解する元となる言葉である。もし、言葉がなければ、生死は理解も判断もできなくなる。

 また、神のような絶対的な事象が存在するかどうかもまた、言葉の問題なのである。存在が有無もまた相対的な言葉の判断であり、絶対的という言葉自体が相対的な言葉から生まれたものだからである。

 つまり、神も人も、有無も、生死も言葉から作り出されたものであり、言葉を超えた真実の姿とは似ていてもまったく同じではない。それは言葉が事象をシンボル化して生まれた所以だからである。

 もし、生死は何か? その真実を追究するためには、言葉の相対を一度超えてから、もう一度組み替えて、文章化すると、新しい理解や判断ができることになる。

 今私は畑で穀物や野菜の一生を研究している。植物の生死を観察していると、絶対的な生も死もなく、相対的な生死が繰り返されていることに気が付く。個人の命は米の一粒のようなものであるが、米自体からすれば、米一粒の命は地球の重さよりも重いとはけして感じられない。

 しかし、米一粒にみな人間と同じように、名前を付けたら、どうなってしまうだろうか? 地球よりも重く感じられるだろう。米太郎は一度生まれたら、二度と生まれることはないからだ。その米太郎の一生の記憶がそれを知る人間に魂として絶対の生になってくるだろう。

 つまり、命や魂は言葉が生まれる最初の「命名」という「シンボル」「象徴」に過ぎない。こうした命名は事象を相対的にとらえた想像世界でも同じ理解が生まれる。

 例えば、生きている世界を「この世」として、死んでいる世界を「あの世」として、命名するのである。すると、戦争の敵味方とおなじように、どちらを基点にするかで、理解が反対になるのである。矛盾という問題がしばしば起きるのはそれが同じ基点ではなく、相対的な基点から、言葉による理解をしようとするからである。

 今地震津波でなくなったAさんがいたとする。この世ではAさんは死んでいるが、あの世ではAさんは生きていると判断できる。あの世のAさんがそこに災害でやはり亡くなったら、Aさんはこの世に生まれてくることになる。

 この場合、この世を基点として判断するなら、Aさんは再生したことになる。それは米一粒の生死と同じで、何度でも生死を繰り返して、米一粒は存在することになる。しかし、Aさん、米太郎という名前は「一度しかない人生の個々の命の姿」であるから、再生はけしてありえないことになる。

 そのため、もし、けして死にたくなかったら、「自分の名前を消し去る」ことである。Aや米太郎という名を消し去るのである。すると、あなたはつねに生死を繰り返す1人の人間になることができる。

 しかし、命よりも今の欲望を優先すると、原発事故が起きて、人類そのものが破壊、変形してしまう。過去の地球上でたくさんの絶滅種があるように、人類もまた同じ愚かな行為に走り出す。

 というのは、生死を繰り返すのは遺伝子が媒体となっているからだ。遺伝子そのものを破壊するような放射能物質をどんどん造ってしまい、それを廃棄できずに、保管垂れ流しすることで、人類は絶滅した恐竜と同じ運命をたどることになるだろう。

 人間のほとんどの根本的問題は「自我」から来る。自我とはこの世のたった一度の名前をもった個人名である。そこに死は必ずやってくる。しかし、個人名を消し去った人ひとりの命の死はなく、再生を繰り返すだけである。

 枯渇するエネルギーを元にするのではなく、再生するエネルギーを元にする生活でこそ、人類がより長く地球上に生きられ、幸せに暮らせる条件になるだろう。

カテゴリー: 自然に生きる パーマリンク