ただいま引っ越し中

 家の売買は結婚式と同じような一大行事に思えたので、その関係者の記念写真をとった。

 左から、銀行員(抵当権の持ち主)、不動産屋1 不動産屋2 売り主 買い主(私) 司法書士

 なお、写し手は不動産屋1の若手の社員であり、場所は現行のロビーの衝立をしただけの一室というよりはコーナーであった。

そして、今は引っ越し真っ最中である。

 引っ越しや家を造るのは業者まかせにしたくなかった。家族でコツコツを築き上げていくようにしたかった。それは畑は野菜を作るように、家は人を創ると思えたからだ。

 引っ越しは転出届けをして転入届けをする。その逆はできない。転出届けがないと転入届けが受け付けられない。これは、何か物事をするうえで、「古いものを捨てなければ新しいものは手に入らない」ということでもある。

 今回、生活の基本となるのが、住所であることが嫌というほど思い知らされた。それは人が自分が中心になるようなものである。人はほ乳類という動物であり、あらゆるところを移動できるのが特徴だが、人が社会的動物になるためには、植物的要素が必要になり、大地に根付くことが必須になる。それが住所を定めることになるからだ。

 家を借りることと、買うことはその家を使う権限が大きく違ってくる。家に対する自由度がまったく違ってくるからだ。家を借りていたら、それを壊して新しく改装することはできないが、買えばそれができる。

 今回、10年家賃を払って家を借りる値段と同じ値段で家を買った。同じ1000万円のお金でその結果はまったく違ってくる。貸借は自分のものにならず、売買は自分のものになる。自由度は天と地の差があるのだ。

 お金のシステムは中央銀行からの貸借から生まれている。所有権の移転ではないのに、事実上はお金を一番持っているものがその所有権を持てることになるという矛盾したシステムになっている。

  お金の権限を与えた国も、発行する中央銀行も、お金の所有権はなく、お金を持ったものに所有権があるというシステムはすべての経済生活はお金持ちに支配されるということである。人は生まれながらにして平等であると国が保証するならば、今のお金のシステムは根本から改める必要があろう。

 ビニールハウスの中に家財をつめこもうとしたが、その中は湿気が多く、家具がすぐにだけになることが判明したので、リビングに全部つめこんで、移動しながら、家を改装することにした。

 家を自由に壊すことができるので、改装が思う存分できるのがたのしくなる。それにしても、改装しがいのある家を買ったものだ。かなりのお金を覚悟する必要がありそうだ。

 

 

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