12日間も浸水させ、蒔い種籾の芽が1週間もしてもほとんど発芽しなかったので、今年も失敗かと思ったが、数年ぶりの台風がやってきて、大雨を1日降らせてくれ、その翌日には暑い夏日になり、いっきに、その種籾が発芽しだした。
まだ、失敗はしていなかった。問題はその種籾を狙って、黄緑のメジロがたくさんやってくる。一緒にまいた大豆の種はハトがやはり食べてしまう。
そこで、音を立てたり、石を投げたりして、脅かすがいっこうに効き目がない。そこで、急遽、昨年使った不織布を敷いたが、今回の稲大豆の雑草計画にはとても量がまにあわないので、麦をすぐ脱穀して、その麦わらをまくことを数日で完了させた。
どんなにかわいいハトやきれいなメジロであっても、稲や大豆を育てるには害する鳥になる。あのクワガタムシだって、果樹には害虫になる。
麦わらを蒔くことで、鳥が食べる内容が変化してきた。それがわかったのは、脱穀が終わって、まだ麦種が残っていた最終の麦わらを蒔いたときである。そこに、メジロとハトが集中して集まっていたのである。
つまり、鳥は籾種や大豆をあきらめて、捨てた麦の種を食べ始めたのである。麦わらに混じって捨てた麦種はすぐに発芽して、秋に見事な麦穂をなるが、どういうわけか、種が実らない麦穂になる。
そのため、この捨てた麦種は鳥に食べられた方が稲や大豆にとっては雑草になるので、助かることになる。そうなると、このメジロやハトは益する鳥になるのである。
鳥にとって、自分たちが害鳥か益鳥かなんて関係ないのだが、それは人間にとっての判断なのである。
害虫や害鳥の判断は人間が行うというのは人間の偏見であるのだが、では人間の善悪はどうだろうか?
私にはどうしても赦せない人がいるが、その人たちは私に害した人であるからだ。思い出すだけで腹が立つのだが、もし、その彼らを心の中で赦すとしたら、どうなるか想像してみた。
自分の心が実に楽になることを発見した。実はこの想像をするにあたって夢をみていた。故障したバイクを空き地に置きっぱなしして、再び取りにいったら、そこは人の家の真ん前で、故障したバイクがなくなっていた。
悪いことをしたと思い、冷や汗かきながら、その家の住人にきくと、なんとそのバイクはその人の納屋に納めてあった。謝りながらバイクを持っていこうとすると、放置したところがゴミが散乱していたため、急遽、そのゴミ清掃をさせてもらうことにした。すると、その家は広く、他の広い範囲までゴミが多く、清掃する必要があった。それは赦してもらうチャンスと思って、その手伝いをするうえで、その家の人たちとの温かい絆みたいのを感じるようになっていった。
この夢で、赦されるということは温かい絆を築くことなんだなと知った。
つまり、自分が害した人間であった場合、その罪が赦されることはとてもうれしい状況になるきっかけになるのだから、自分を害した人を赦すことも同じよき結果を導くことになることは確かなのである。
仏典の中で、釈迦が数百人も殺した犯罪人を赦して、仏弟子にしてかわいがった。社会ではその仏弟子を怖がり、避難したが、釈迦はいっこうに平気だった。その仏弟子はあとで、善行を多く積むことになったという話である。
罪を憎んで人を憎むな
とはいうが、それを実行するのは非常に難しいことである。だが、殺人鬼であった仏弟子は悪人か、善人かというと、どっちでもないし、どっちでもあるということになる。
人の善悪も鳥の益害も人の多数決で決められる判断であることがわかり、それは多数の社会の一方的な偏見であるのである。
命ある鳥も人間も、そうした多数決善悪には無関係である。そのため、もし、あなたが多数の社会の善悪判断に従わないで、自分の心で判断するとしたら、こうした善悪は無関係になるというより、あなたの心次第で、相手を悪人にも善人にもすることができるということだ。
もし、悪人を赦すことができると、その人を善人に替えることも可能になる。実際に常にそうなるとは限らないが、少なくとも、自分の心の中では考え方次第では確実に可能である。
では、赦した方がいいのか、悪いのかという判断はこうだろう。
命は人だけでなく、命ある生きとし生けるものすべてが一つにつながっており、一つの絆ができている。そうした場合、その命の姿をそのまま認めるならば、どんな害と悪も赦して楽しく生きていった方が楽しいことは確かであろう。自然に順応するとはそういう気持ちであって、人の欲望に従うことではないのである。
とはいえ、赦しの度合いもあるだろう。それは絆として、糸を紡ぐ範囲のことである。命が一つであるという原理からは本音では100%赦しても、立前上、赦す度合いの決めていくことが、より愉快に社会を楽しむことができるというものだろう。