今に生きるのが生きているってこと

 関東の梅雨入りは6月8日だった。今日は6月16日だが、その期間に、雨が降ったのはたった二日間で、しかも、その両日は、2時間くらいでやんでしまった。確かに、毎日曇り空が多かったが、雨はほとんど降らないので、急遽、ホースを買って水やりをした。 
 水道水で、水やりを十分に300坪もすると、半日もかかる。この手間がバカにならないのだ。雨が降れば体を休めることができる。

 種籾は麦を刈り取った後にばらまけば育つという予想をしていたが、それでは心配なので、いくらか土をかぶせるようにした。それが大変な作業であったのだ。土を買ってきてばらまくとしたら、数トンの土が必要だ。

 さらに、忘れていたのだが、水稲の種籾は水に8日から12日間浸けておかないと発芽しないのだ。それで、梅雨入りに合わせて、6月1日に20㎏の水稲の種籾を浸けた。そして、8日に麦刈りが終わり、6月12日になっても、発芽しなかった。ネットで確かめると、32度の温度にすると、1日で、いくらか発芽しだしたものがあったので、それをばらまいた。

 その種籾をばらまく前に、刈り取った麦の畑を耕やし、その土をかぶせるようにした。この作業がまた大変だ。耕耘機があれば、1日でOKかもしれないが、そのためだけに、買うのもばからしいのでやめ、草刈りをしながら土をおこす三角の鍬のようなもので、麦の根を斜めに線をかくようにひっかいた。

 その作業だけでも3日間かかった。そして、種籾と大豆をばらまいた。すると、ハトがやってきて、大豆をほとんど食べられてしまったし、種籾も土に接しないで、買った麦わらに乗っているものが多かった。

 そこでまた、三角鍬で土かぶせをしようとしたが、とても、すぐには大豆をハトから隠せないので、地面をひっかけるような職人用の30度くらいの平鍬をホームセンターみつけ、値段が5800円もしたが、使ってみた。

 すると、この平鍬は根こそぎ草の根をとりながら、土をまぜてくれるので、効率よく3日間で、種を鳥から隠して、土と麦わらをのせられた。

 あとは、稲と大豆が無事育つかを見守るだけである。

 麦刈りして干した麦の脱穀を本日開始できた。そして、脱穀後の麦わらを1ヶ月間で腐らせ肥料として使えるように、ワラ分解王なるものを農協で購入した。つまり、腐敗を促進する糸状菌などの顆粒状のものだ。

 昨年は肥料として鶏糞を蒔いたが、どうも、それは窒素リン酸カリが強すぎ、また病虫害も多くなる感じでし、その効果が薄い感じがしていたからだ。

 なるべく、自前で肥料をたくさん作りたいためである。

 私の目的は主食である稲が雑草のように毎年育ち実るかどうかの実験である。雑草と稲との交替ができるかどうかにかかっている。麦は冬に育つので競争相手の雑草がいないので簡単に育ったが、夏草である稲は競争相手の雑草が多すぎるのだ。

 ふと思うことがある。どうして稲は水稲として、機械や農薬や肥料で苦労しないと育たないのだろう。どんなに数千年の歳月をえた知識や技術であれ、それは過去のことである。

 人は過去を思い起こすことはできても、過去にもどって生きることはできない。未来だって、ほとんど想定外のことが起きている。占いや予想だって、ほとんどはずれるのだ。

 それは過去と同じで、未来を空想できても、未来に生きることはできないのである。

 一体、生きるということは何だろう?

 生きていることは自己が存在していなければならない。我々はこの宇宙時間において、自己はいつ産まれ、いつ死んでいくのだろうか? 人の寿命が80年とはいっても、それは宇宙時間における数億年単位で比較すればまさに一瞬である。

 人類だって、宇宙空間における存在としてみれば、まさに一瞬の光のまばたきみたいなものであろう。

 我々の最も大事なものは自己の存在と自己の寿命時間である。人類・世界・国・社会と言ったって、それは単に自己の存在が大小集まっただけにすぎない。それらが絶対的に存在することも、永遠に生き続けることはできない。

 だったら、最も大事な自己という存在は何であろうか?

 それは今の自分でしかないだろう。過去の自分も、未来の自分も、みな空想の産物であり、自己存在できていないものだ。それが存在した、存在できるような自己は、今存在する自己が種となって、育った想像の概念にすぎないので、いわば、過去の自分も実在しないし、未来の自分も存在もしないものである。

 生きていることが存在であり、死んでいることが無存在とすれば、自己の存在は今の一瞬でしかありえないのである。

 未来を悩むことも、過去に振り回される必要なんか何もないのだ。それが過去の知識や技術であり、未来の科学的予測や占いであっても、それらは無存在に等しいものであり、今の自分の想像の産物でしかないものである。

 そのため、過去も未来も、今の自分がどう想像するかで、築かれるものであり、それが実際に確実に起こったことでも起こりえるものでもないのである。

 過去の歴史がしばしば変わってひっくりかえるのはそのためである。過去は事実ではなく、単に人の解釈にすぎないのである。事実は今の瞬間でしかありえないものである。

 こう思うと、

今の自分が最も大事な時間と最も高貴な存在であるかが解った気がする。

 

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