自然は完璧ではない

 昨年麦が食べきれないほど実ったので、ほとんどの麦を雑草を刈って麦をそこらじゅうにばらまいた。すると、翌春には他の雑草が入り込めないほど、麦がどこでもはえてきた。

 ほんの隙間があるところに、アメリカフウロが多く、成育していた。また、まわりの果樹園の休耕地にはほとんどイヌムギが繁茂していた。うちも、麦があまり育たなかったところに一部生えていた。

 梅雨入りに合わせて、種籾をばらまくため、まだ実が堅くはないが、早めに麦を刈ることにした。 そして、8日間かかって、麦刈りが終了した。

 麦刈りのときに、少々のアメりカフウロが混じると何か嫌な感じがしたので、束ねるときには抜いていた。脱穀する際にはあまり問題はないのだが、何か仕事をきれいに完璧にしたくなり、その手間が意外とかかっていた。

 そのままいくと、梅雨入り前に麦刈りが終わらないあせりを感じて、少々のアメリカフウロが混じろうと気にせずに刈っては束ねていったら、なんと倍の早さになっていることに気が付いた。

 この世界を数学のような完璧だというピタゴラスがいたが、この自然は違うな!と思えたのである。大体、古今東西、人は神のような完璧な存在を求める。多くの人がそうだが、とにかく世界一が好きだ。この世界一になろうという意識も、完璧な神のような姿になろうとするものだ。

 つまり、人為を煮詰めると、それは完璧な存在なる。麦や米も完璧な白さや甘さを求める。それに田畑もみな整然と美しくしないと気が済まないのである。

 だが、自然はこんな整然さや数字に合わせて形作られてはいない。知識とはいわばこうしたある数式みたいな完璧さである。しかし、どんなに計算をして月に行っても、その誤差はでるものである。完璧な計算はありえないのである。

 こうした完全無欠で、全知全能のような神に反するのが、自然の予測不可能な姿である。それは人はけして悟りきれない存在であるとする不知を説く老子はまさに自然の姿をそのまま言い表したのであろう。

 昨年の震災も原発事故は想定外である。原発だって、完璧な安全などは人は作り得ないのである。

 だから、自然は完璧ではないってことだ。  しかし、人はいつも完璧さを求める。だから、苦労が絶えないのである。麦の収穫だって、自分が自給自足できればいいのだ。それを売って金儲けしようとすると、苦労するわけだ。要は生きていければいいだけなんだから、あまり完璧さを求めずに、自然に楽しく生きていきたいものである。

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