人は何もしなければ自然は循環する

米と麦の自然農法について思うのだが、春麦が実り、秋稲が実るのを毎年自然循環させるとしたら、雑草と同じ方法をとればいいのかもしれない。

 つまり、人は何もしないで、ただ雑草が生い茂り、その雑草の交代が自然に行われればいいことになる。毎年、春も秋も同じ雑草が生える・・・人は何もしなくもそうなる。

 そこで、

もし、人が米麦に対して、何もしないで、もちろん収穫もしないで、米麦が毎年循環できる土地になれるかもしれない。

 でも、収穫して米麦を食べるならば、それを食べた生ゴミや人糞は肥料としてもとの土地にもどして肥料にするなら、米麦人の三者が自然循環することになる。

人は自然の一部である。虫も鳥も、牛もみなそうである。雑草も、病害虫もまたしかり。

つまり、その土地の命の循環を生かされている生物で生死をくりかえし、その種を共存させるような自然循環にすれば、人はほとんど苦労しないで、食べ、働くことができるのではないだろうか。

自然を主して、人が従になってこそ、人は快適な生活が可能になるのではないだろうか。それを逆にするから、えらい苦労をすることになって、自然の反動をうけて、被害をうけるのではないだろうか。

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