借りて返すということ

 このブログのタイトルである「生きているということ」の歌がある。一番有名なのが谷川俊太郎の詩に小室等が作曲したもの、

この歌詞の前の方は生きるという詩文と同じだが、いま生きているということの歌詞は途中から変わり、多く追加されている。
▼「生きる」 作詞 谷川俊太郎
 生きているということ いま生きているということ それはのどがかわくということ 木漏れ日がまぶしいということ ふっと或るメロディを思い出すということ くしゃみをすること あなたと手をつなぐこと

 生きているということ いま生きているということ それはミニスカート それはプラネタリウム それはヨハン・シュトラウス それはピカソ それはアルプス すべての美しいものに出会うということ そして かくされた悪を注意深くこばむこと

 生きているということ いま生きているということ 泣けるということ 笑えるということ 怒れるということ 自由ということ

 生きているということ いま生きているということ 
・・・・・・・
 ここまでは歌詞が同じだが、元の詩文は下記である・・・
・・・・・・・・
 いま遠くで犬が吠えるということ いま地球が廻っているということ いまどこかで産声があがるということ いまどこかで兵士が傷つくということ いまぶらんこがゆれているということ いまいまがすぎてゆくこと

 生きているということ いま生きてるということ 鳥ははばたくということ 海はとどろくということ かたつむりははうということ 人は愛するということ あなたの手のぬくみ いのちということ

・・・・・で終わる。しかしタイトルは「いま生きているということ」に変わり、変更追加されたのは次の歌詞である。

生きているということ いま生きているということ いまどこかで兵士は傷つくということ いまどこかで産声があがるということ いまどこかで星は流れ いまどこかで虹が立ち いまどこかで火は燃えること

 いま生きているということ いまだれかが旅立つということ いまだれかがだれかをみつめ いまだれかが決意すること いまだれかが問いかけて いまぼくらは歌うこと

 いま生きているということ いま地球が廻っているということ いまナイフはきらめくということ いま子兎が跳ね鯨はまどろみ いま種子はまかれ石は彫られ いまぶらんこがゆれていること

(歌手の小室等がアドリブで挿入したと思われる部分・・・いまぶらんこがゆれていること ぶらんこは僕が作った ぶらんこ ぶらんこには娘がのっている いまぶらんこがゆれていること)

 生きているということ 鳥ははばたくということ 海はとどろくということ 夜はあけるということ 風が立つこと 静けさということ いま…いまが過ぎてゆくこと いま…いまが過ぎてゆくこと(繰り返し)

 生きているということ いま生きているということ 人は愛するということ あなたの手のぬくみ いのちということ

 と、最後は同じ詩分になる。

 この長い歌詞はいってみれば、「在りのまま」の姿をそのまま描写しただけでいいので、最初に、「生きているということ いま生きているということ」を言い、最後に、「人は愛するということ あなたの手のぬくみ いのちということ」で終わればすべて素敵な詩になれる。

 また、生きているということの歌には、永六輔作詞、中村八大作曲したものがある。

 生きているということは 誰かに借りをつくること 生きていくということは その借りを返していくということ 誰かに借りたら誰かに返そう 誰かにそうして貰ったように 誰かにそうしてあげよう

 生きていくということは 誰かと手をつなぐこと つないだ手のぬくもりを 忘れないでいること めぐり逢い愛しあいやがて別れの日 その時に悔やまないように 今日を明日を生きよう 

 人は一人では生きてゆけない 誰も一人では歩いてゆけない

 生きているということは 誰かに借りをつくること 生きていくということは その借りを返してゆくこと 誰かに借りたら誰かに返そう 誰かにそうして貰ったように 誰かにそうしてあげよう 誰かにそうしてあげよう 誰かにそうしてあげよう

・・・・・・

 つまり、「生きているということは誰かに借りをつくり、それを誰かに返すこと」だということであるから、貨幣制度における貸借システムであり、その債券がいわば命の証みたいなものである。

 しかし、「生きているということの貸借」と「貨幣の貸借」では決定的に違うことがある。「生きているということ」は「誰かに借りたら誰かに返そう」であるが、「貨幣の貸借」は「借りたお金は貸した人に返そう」であり、貸し主である投資家である。

 「いま生きているということ」「それは愛するということ」であるが、その愛する相手は自由に選べる誰かであるということであるが、「貨幣における愛することは」「お金を貸してくれる人」であり、特定な投資家のことである。けして貧乏人は愛されることがないのが貨幣の世界である。

 もし貨幣の世界で、「生きているということ」がどうなるかというと、

 生きているということはお金を借りること、そして、そのお金を貸し主に返すこと それができなければ 死んでしまうということ そして、 貸し主を愛せなくなったら 死んでしまうということ ・・・・

 となり、シュールな苦笑いせざるをえない。実際、借金を苦に自殺する人も出てくるのが「ありのまま」の現実でもあるのだ。

 お金のために人は殺し合うことだってあり、「生きているということ」ではなく、「死んでいるということ」になる。

 その理由はたった一つである。「借金する相手と返済する相手」が自由に選べれば「生きているということ」であり、「特定な貸し主」であったならば「死んでいるということ」である。

 例えば、サラ金から1万円借りたら、その一万円を愛する子どもに返済したとするなら、「生きているということ」だが、借りたサラ金に返すなら「死んでいるということ」であり、利息付きなら「死んで地獄へいく」ということである。

 いわば、「生きているということは 自由であること」なのである。その自由とは愛する人を選べるということであり、特定な金持ちに支配されることではない。

 国自体、自由はなく、特定な投資家に支配されるようになってしまうのは、国は投資会社に借金して、その投資会社に返済しなければ倒産するシステムであるからだ。

 国も国民も自由に生きるためには今のお金の仕組みを変えていくことが必要だろう。

 

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