みんな違ってみんないい、みんな自信を持て

 昔昔、笑いの研究をしたくなったことがあった。その始めが確かベルグソンの本を読み始めたが、さっぱり解らないので読むのを途中でギブアップしてしまった。

 笑いを研究したところで、笑いを造れるわけではないので、その意義を感じなかった。笑いとは芸人が直感的に創作しているようなもので、音楽と同じように天才でないと、人を笑わせるようなことはできないと思えた。

 ただ、お笑い芸人がときどき、つっこみとかボケとか、落ちはどうするとか、言うことがあるので、ひょっとしたら、お笑いは直感ではなく、技術なのかもしれないと思うようになった。

 笑いといっても、私にとって、お腹の底から笑えるような芸人は今までにたった一人しかいない。 すでに亡くなったがマルセ太郎さんだけである。

 彼はマイナーな芸人であるが、彼の造る笑いは他とはかなり違っていて、そこに深い愛情が感じられた。言葉の駄洒落とか、下ネタのような笑いはけしてしないし、上から目線で、小馬鹿にした笑いはけしてしなかった。

 彼しかできない笑いは、身障者の聴衆に対して、身障者の笑いで、笑わせることができたことだろう。これは同じ立ち位置でないと、造れない笑いである。

 マルセ太郎がもっとも愛した言葉は、「記憶は弱者にあり」である。墓名碑について話したとき、この言葉にしたらといったら、彼は「いやこの言葉は私の言葉ではないから」と言って驚いた。私は彼の言葉だとばかり思いこんでいたからだ。でも、とっさに彼にこう言い返した。「でも、それを有名にしたのはマルセさんなんだから、使っていいのではないでしょうか」と。でも、彼は「・・・・・」だった。

 彼は「笑いは人格だ」といい、他の真似をすることはけしてしない人だった。猿の物まねで有名になったのだが、他の芸人のモノマネはけしてしなかった。

 彼にとってモノマネの笑いは形態模写のようなもので、ある種のパターンをとらえるようなものだった。猿の真似でも、通常の舌で上唇を押し出すようなものではなく、猿が後ろ向きになり、それで振り返るしぐさに猿独特の哀愁を演出した笑いなのである。

 彼の墓名碑は結局「マルセ太郎」という芸名になった。彼の言葉で有名なのが「be動詞への自信を持て」である。それは中津川市阿木中学校の噴水の碑として作られている。このBe動詞への自信もまた、形態模写の中にある一連のパターンを見いだしたものである。

 英語で、「I am」は「私は存在する」、「You are」は「あなたは存在する」、「He is」は「彼は存在する」であり、そのam、are、isという動詞は「存在する」というbe動詞がみな変化したものである。

 つまり、be動詞にとって、I もYOUも、HEも、同じ存在であるが、それぞれに合わせて変化した形になる。「私は私、あなたはあなた、彼は彼、それでいいのだ。みな同じ存在であるが、みな違った姿をもっているに過ぎない。他と比較する必要なんかない、君らしく生きなさい」というのが、Be動詞への自信である。簡単にいえば、「あるがままに」であり、英訳すると「Let it be.」「as you are・・as I am ・・ as he is・・」とまあ、be動詞の変化が実存を表現する。

あの金子みすずの「みんな違ってみんないい」というのを英訳すると、「Everyone is different, and everyone is great.」であるが、これをさらに私流英訳して追加すると、「to be is different,  to be is great. and to be is confidence 」になり、そして、もとの日本語に還元すると、「みんな違ってみんないい、みんな自信を持て」となる。

 実に、書道家の相田みつをが「自分が自分にならないで誰が自分になる」にも通じるような意味が深いものなのだが、マルセ太郎にとって、その深い意味をどうして笑いにすることができるのか?不思議である。

 もっともマルセ太郎にとって、「人間性そのものが笑い」なのかもしれない。

 確かに、人間しか笑わないし、他の動物がたとえ笑っても下品だろう。

 私はずっとマルセ太郎にあこがれており、あんなふうに笑いを作れたらいいなあと思っているが、最近、「愉快に生きるコツ」がつかめてきたので、ひょっとしたら、マルセ流の人間存在への笑いはできないが、私流の現実への笑いはできるかもしれないと思えるようになってきた。

 

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