今に生きるということ

 最近、愉快に生きるコツをつかんだ。過去にこだわる必要がないように、未来を不安に思う必要もない。
 それは過去はいずれ消え去るので、それを限定することはできないし、こうだという確定もできない。過去と同じように、未来は誰にもこうなるとは確定することはできないのだから、その未来を限定的にとらえる必要がない。

 では今はどうだろう?

 今という時は、過去でも未来でもないのだから、過去にも、未来にもとらわれることはないということは確定している。つまり、今は過去未来から解放された瞬間であり、そこに限定するものはなく、まったく自由な時なのである。そして、そこには無限の可能性が在るということだ。

 それは現実が限定的であるのに対して、夢は無限に広げることができるように、今とは夢のような瞬間なのである。

 先週、リフォームの遅れやら、仕事の問題が大きかったせいか、とにかくあせりを感じて、えらい疲れていた。それで、みな神様道の空想をしたら、生死を超えて、生きることを楽しむことができた。

 確かに、現実に死はあるし、政府も私の夢とは反対の方向に進んでいるが、だとしても、夢は現実に左右されることはないのだ。現実に死があっても、政府が原発推進でも、私の夢を制限することはない。

 私は数千年先の時代だって、夢を描くことができる。私は夢では死ぬことはなく、死んでもまた生まれ変わることができるほど、神様のような存在なのである。

 つまり、夢においては、私はけして死ぬことはないのだから、どうして、自分の行動に限定をして、あせりや怒りを感じる必要があるというのだ?ほどんど限定的な現実はまさに落語の落ちにようなもので、笑い飛ばせるほど愉快なことばかりだからである。

 野球で、日本がプエルトリコに負けたとして、がっかりしたとする。でも、自分をプエルトリコ人だと想定したら、これは愉快になってすっきりするものだ。つまり、現実とは自分を日本人であると限定してしまう感情なのである。

 今は限定的ではなく、無限に広がる夢のような時間である。それをどうして限定的にとらえて、いらいらしたり、不機嫌になってしまうのは自らすすんで病気になるようなものである。

 今に生きるとは夢に生きるということであり、愉快になるということである。現実の過去や未来にとらわれるのは馬鹿げたことだ。

 

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