Archive for 3月 12th, 2013

みんな神様道 3

火曜日, 3月 12th, 2013

 三章  道って何?

  神様とみんなについて考えると、それは「自分の意識」が出発点になってくる。そして、三本柱の道についてはこの「自分の意識」をどこに置くかということなのだ。

 「道」とは「生き方」である。当初、「みんな神様術」にしようかと考えたが、好きな柔道を柔術にはしたくなかったからだ。「術」とは「技術・知識」みたいで、狭くなるので、「自由な生き方」というような意味で広くとらえたテクニックにしたかったからだ。

 四章  みんな神様道って何?

  これを簡単にいうと、「もし自分もみんなも神様だったら、この世界をどうする?」という空想を楽しむティータイムである。

 実際、私はあの世が近いのだが、「もし生死が自由にできる神様になれたら」、私は自由にあの世もこの世も出入りできる存在になる。これほどおもしろい空想もあるまいと思うからだ。

 確かに現実的には悲惨で苦しい毎日があっても、空想だけはそんな現実に左右されないで、神様仏様にも、また、どんな姿にもなれるし、宇宙や世界だって、いくらでも変えられることも確かなのだ。

 あの震災で二万人亡くなったかもしれないが、空想ではあっという間にその二万人を生き返らすことだってできるほど、自由自在なのである。

 しかし、この自由自在の神様空想ゲームをよりおもしろくするには、ルールが必要であり、ルールがなければゲームもできない。

 この空想ゲームのルールはただ一つ、自分も神様であると同時に他人もすべて神様であるとするルールである。そのため、なかなか自分の思い通りに空想は進まないってことになる。

 例えば、あいつは殺したいと思って殺しても、相手も神様なので、殺されてもすぐに生き返ってしまうことになり、そして、復讐されて自分も殺されるが、また再生してやりなおすってことになる。

  神様というのは殺せないのだ。いわば、将棋みたいなもので、敵駒をとって、好きなところに味方の駒としておける存在のようなものである。

 

みんな神様道 2

火曜日, 3月 12th, 2013

 二章  みんなって何?

 今日、3月11日震災2年目、全国で午後2時46分に犠牲者への黙祷が捧げられた。

 その様子がテレビ朝日ではとくに原発近くで帰宅OKの村でライブされていた。しかし誰もそこに帰宅してこない、これない現状を踏まえて放送していた。特に除染されたとされる家を取材している様子にはびっくりした。

 除染した後も周囲の木の枯れ葉などで、放射線量が増えている。しかも、除染して山積みになった土砂が近くに放置されたままで、その行き先も決まっていない。とても、帰れる場所ではない。

 つまり、原発周辺は復旧も復興もできないという現実がある。それはもう二度と取り返しがきかない死の町をいっており、チェルノブイリと同じ惨劇があるということだ。

 しかし、衆院選の再稼働を進める自民党圧勝以降、脱原発への声は消えていっている。国民の多くの関心は株と通貨の上がり下がり、そして、TPP参加である。

 さて、被災された人たちにむかって言う「みんな」と、与党を選んだ多くの国民に向かっていう「みんな」とはあきらかに違いがある。

 「みんな」とは一体どういう内容なのか?

 壇上で演説するときに、「みなさん」という場合、演説を聴く人たち全員をさしている。演説する自分が「みなさん」に入っている場合と入っていない場合があり、それは話の内容で選択される。

 そして、「みなさん」はその演説を聴いていないその他大勢の人たちはさしていない。

 つまり、「みんな」とは、そこに自分が入っているかいないかはっきりしないし、その場その場で、変わってしまう内容だということだ。

 しかも、「みんな」という発言者個人の意識の対象者であって、「みんな」という存在が実際にあるのではないし、固定できるものではない。

 しかし、神様は何かという対象でと同じで、小さな集合体から大きな集合体をさすともいえるが、そうした集合体も固定してなく、変動するものである。

 そのため、「みんな」とは自分が意識する対象者全員であるといえる。もし、自分が井戸に住むカエルだったら、「井の中の蛙大海を知らず」ということになり、「みんな」とは同じ井戸の中に住む他のカエルにあたる。

 もし、自分の意識が変わればみんなも変わる。「世界を変えたければ自分を変えればいい」と言われる所以である。

 そのため、「みんな」とは「自分」のことであり、「自分が意識する他人全体」のことだとして考えていきたい。