二章 みんなって何?
今日、3月11日震災2年目、全国で午後2時46分に犠牲者への黙祷が捧げられた。
その様子がテレビ朝日ではとくに原発近くで帰宅OKの村でライブされていた。しかし誰もそこに帰宅してこない、これない現状を踏まえて放送していた。特に除染されたとされる家を取材している様子にはびっくりした。
除染した後も周囲の木の枯れ葉などで、放射線量が増えている。しかも、除染して山積みになった土砂が近くに放置されたままで、その行き先も決まっていない。とても、帰れる場所ではない。
つまり、原発周辺は復旧も復興もできないという現実がある。それはもう二度と取り返しがきかない死の町をいっており、チェルノブイリと同じ惨劇があるということだ。
しかし、衆院選の再稼働を進める自民党圧勝以降、脱原発への声は消えていっている。国民の多くの関心は株と通貨の上がり下がり、そして、TPP参加である。
さて、被災された人たちにむかって言う「みんな」と、与党を選んだ多くの国民に向かっていう「みんな」とはあきらかに違いがある。
「みんな」とは一体どういう内容なのか?
壇上で演説するときに、「みなさん」という場合、演説を聴く人たち全員をさしている。演説する自分が「みなさん」に入っている場合と入っていない場合があり、それは話の内容で選択される。
そして、「みなさん」はその演説を聴いていないその他大勢の人たちはさしていない。
つまり、「みんな」とは、そこに自分が入っているかいないかはっきりしないし、その場その場で、変わってしまう内容だということだ。
しかも、「みんな」という発言者個人の意識の対象者であって、「みんな」という存在が実際にあるのではないし、固定できるものではない。
しかし、神様は何かという対象でと同じで、小さな集合体から大きな集合体をさすともいえるが、そうした集合体も固定してなく、変動するものである。
そのため、「みんな」とは自分が意識する対象者全員であるといえる。もし、自分が井戸に住むカエルだったら、「井の中の蛙大海を知らず」ということになり、「みんな」とは同じ井戸の中に住む他のカエルにあたる。
もし、自分の意識が変わればみんなも変わる。「世界を変えたければ自分を変えればいい」と言われる所以である。
そのため、「みんな」とは「自分」のことであり、「自分が意識する他人全体」のことだとして考えていきたい。