「自然に生きる」が私のモットーであり、それを目標にしている。でも、もし「自分が自然に生きていれば、それがモットーにも目標にはならないだろう。私が自然に生きていないから、自然を目標にするってことになる。
それに、自然には目的はない。命の生死の繰り返しが存在するだけである。
目的があるのは欲望だけである。しかし、欲望と自然は同じものだと誤解されてしまうのはなぜだろうか?
「自然のままに」というのは「ありのままに」ということである。それをそのまま生きる欲望にあてはめると、「ただ欲するままに」ということになり、欲望を肯定するのが自然らしさだと思えてしまう。
しかし、「欲するままに」と「在りのままに」とは違うのである。その違いは自然は大きく、欲望は小さい存在である。また、自然に自我という個々はないが、欲望には自我・個々がある。
人類だけで譬えてみると、人類65億人全体の欲求が自然にあたり、個々1人の欲求が欲望にあたる。
生きるというのは欲望だが、生きて死ぬ繰り返しの存在が自然である。欲望の源泉は自己であるが、自然の源泉には自己も他もあるような自他の存在である。
今脱原発が世界の一番の課題であるが、原発は電気を製造するが、命の危険性が高いものであり、そのウラン資源も枯渇燃料であり、かつ、放射性廃棄物を安全に廃棄するためには10万年以上もかかるため、持続可能なエネルギーではない。
それは一部の人間の欲望でしかない。人類以外生物にとってもっとも生命の存続を脅かすものである。この原発推進しようとする欲望は砂糖に群がる蟻や、明るいところに飛び込んでしまう蛾のような行為にみえる。
欲望がはげしくなると、自分を死に追いやるようになってしまうからだ。快楽ばかり求めて、最後は死に至る病に落ちこむ。それは麻薬のようなものである。
欲望にはきりがない。どんどん前に進むしかない。しかものめり込むように転がっていくようなものである。目標を達してもさらにその上の目標を持って、進んでいく。それは目標を失うまで続く目標であり、矛盾する目標である。
食欲のままに食べると、どんどん太り、動けなくなり、また病気になり、死にいたる。人の命の自然死というのは老衰である。欲望のままに生きると、病気や事故に遭うことが多く、老衰で死をまっとうできるのは難しくなる。
欲望を調整して、必要最小限の食事と運動をしていることが老衰という自然死をえられる。それはまさに自然に生きるとは欲望を必要最小限に調整することだとは言えないだろうか?
つまり、
「自然に生きる」とは「清貧に生きる」ということではないだろうか!