この世は奇跡の連続故に奇跡を求める

人はついギャンブルに夢中になり、勝っては嬉しくなりまたギャンブル、負けると悔しくなり またギャンブルする。

この心の習性から ギャンブルから抜け出せなくなり、ギャンブルなしでは生き甲斐も生きる気力もなくなってしまう依存症に陥ってしまう。

古今東西の人類に、このギャンブルの習性があり、それがどこから来るのか? 探っていくと、

自我が生まれる奇跡にあるようだ。

この世に生まれ出る人はみなそれぞれ奇跡の確立で存在し、消えていく。古今東西にわたって まったく同じ人間が生まれ死ぬことはなく、その確立は人類の歴史にわたって生まれ出て亡くなっていった個人の数だけではなく、未来に生まれ出て亡くなっていく個人の数を合わせても、その無限の数ほどの中で たった一人の自我が生まれるのは奇跡中の奇跡でもある。

人類が生物界に誕生するのは進化の産物である。その進化がどのようにされてきたのか? それを探っていくと、

過酷な状況に遭遇した時に、なんとか生き残ろうとする生命力が突然の進化をもたらす。それを環境の適応能力ともいえて、他の生物と違った選択と進化で 人類が生まれてきた。

こうした進化の環境適応能力はいわば「ピンチをチャンスにする」能力すなわち知恵でもある。この「ピンチをチャンスにする知恵」は必ずあり得るもので、それも一つの道だけでなく、多種多様の生物が生まれ出た進化の数ほどあるようだ。

未来が100%見えることはありえないように、ピンチは100%ピンチであることはない。そこに数パーセントのチャンスが隠されていることは確かな真実であり、その進化へのチャンスを狙って夢見るのが生命力の本源ともいえよう。

人はなぜギャンブルに夢中になるのか?

ギャンブルは少ない確率の世界である。確立が少なければ少ないほど奇跡と呼ばれる。

そもそも自我そのものが奇跡の産物であるから、奇跡を求めるギャンブルもまた奇跡の人の習性にもなってしまうのだろう。

ただ、ギャンブルは金銭をたくさん得ることを目的としているが、そのおもしろさは金銭を得ることにあるのではなく、少ない確率に挑むゲームそのものにあるといえよう。この奇跡を求めるゲームは他にもたくさんあり、宗教による救いも、新技術や新発見新発明だって同じだ。それらはみなより進化を求める生命力の本源にあるといえよう。

 

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