必要は自由への道

ダイエットに挑戦していると 生活が一変する、特に価値観が変わることだ。

 

ダイエットは必要の栄養だけとって 余分な栄養を取らない食生活で健康になることだ。

いわば 山登りで 本当に必要な最低限のものだけリュックに入れて登るようなものだ。

余分な荷物はいわば重荷であり、すぐ息切れしたり、苦労してしまい、快適な登山ができなくなり、それは労苦であり嫌なものになってしまう。最低限必要なものだけを持って、軽やかに登山すれば それが楽しくもなり、好きになって継続するものだ。

 

必要な分だけ持って生きる快適さは、金銭をかせぐことにもいえて、自分が生きるのに最低限の金銭だけを稼ぐようにすれば 余計な仕事や嫌な仕事をしなくてもすむようになる。金銭はあればあるほど良く、幸福や自由になるのではない。金銭は自分にとって生きる上で必要な分だけ得られるようにすることが 最も良く、幸福と自由を得られるという確信をダイエットから学ぶことができる。

 

ダイエットを継続する上で 「もったいない」心が 肥満を生み出す原因になることが多い。余ったものを捨てないで無理しないで食べてしまう。大量に残った食材が食べないと腐って 食べら得なくなると 「もったいない」から、お腹一杯でも余分に食べてしまう。家族のものが残して 「もったいない」から それも余分に食べてしまう。

「もったいない」精神は裕福でない生活にとっては有効だが、裕福な生活にとっては無効である。

裕福な時に有効な精神は「必要な分だけ買う」「余分に買わないこと」である。また「必要以上のものを持たない」ことである。

「もったいない」精神より 「必要な分だけ」精神が重要である。そうすれば余分はものは残らないし、もったいないと思って余分に食べることも苦労しなくてもいいことになるからだ。

ダイエット継続のポイントは「その時必要な分だけ買う」ことだ。まとめ買いをしないで、その時必要な分だけを買い、面倒なようだけど、その方が残りものをしなくてすみ、後で食べたい内容が変わったときに、それらを腐らせたり、捨てたりしなくてすむ。

それはリサイクルより リデュースである。再生産しない、余分に買わない作らない持たないことだ。これは原発電気にもいえて、必要以上の電気も熱量も大量に生産しては 必要以上であるから大量に捨てているのだ。そして、その放射性廃棄物で「死と病の苦労」を何世代にもわたって 引き継がねばならなくなる。これこそ「もったいない」のである。

「もったいない」は「必要ない」という意味で使うことが健全な理解だろう。

 

生きるのに必要のないもの、例えば煙草 酒 嗜好品 麻薬 などである。そうしたものは大量に摂取すると 「それなしでは生きられない」という錯覚誤解に陥り、依存症という死にいたる病になることが多い。

それは

生きるために必要なことでないもの、例えば 株や外国為替の売買 金銭の貸し借り マネーゲーム なども、それに夢中になると 「その損得ばかり気になる」苦労性に陥り、それもまた 幻想を追う心的病になり、それらは本質的にギャンブルであり、勝っては喜びまたやり、負けては悔しいのでまたやり、やめたくてもやめられないという心的危機状況に陥る依存症になってしまう。それは経済的破産や誘惑から自殺他殺への危険にはまりこんでしまう。

こうした「生きるのに必要ないモノ・生きるのに必要ないコト」はわざわざ苦労を買うようなもので、自分を自分でそれらの奴隷化させてしまう。酒は飲んでも飲まれるな! という格言があるように、酒の誘惑にまけて、酒を必要以上に飲まざるとえなくなるアルコール依存症になってしまう。

逆に「生きるのの必要なモノ・生きるのに必要なコト」だけをしていると、余分なモノを持たず、余分なコトをせず 苦労も必要な分だけすればいいので、余分な苦労をしないので生きる余裕が生まれる。それに必要のない欲望も生まれないので、誘惑にもまけないですむ。煙草や酒や旨いものや金儲けの誘惑から奴隷化されずに、自由に生きられる。

それはちょうど狭い部屋の中で余分な荷物がなく 必要なものだけあれば快適であるようなものだ。必要な荷物だけですむなら、あえて広い部屋も必要もないので、よけいな金銭も手間も管理も必要なくなるような ちょうど いつでもどこでもいけるフーテンの寅さんみたいな自由がえられるようなものだ。

宗教においても、私の経験からも、

「信ずれば救われん!」とはいうが、実際に「信じて馬鹿をみた!」ということの方が多いのではないだろうか。

「触らぬ神にたたりなし」という諺はまさに「信じなければ その信仰に縛られることはない」という意味で庶民の知恵であろう。

自分が生きるのに必要な信心だけ持てばいい、それ以上の信心をもったら、それは重荷であり、それらの奴隷になって、今世界を震撼させているイスラム国のような残虐な殺人や性暴力をせざるをえなくなってしまうことだってありえることだ。

自由は自分が生きる上で必要な信心 モノ コトだけにして、それ以上余分な信心・モノを持たず コトをしないことで得られるのだ。

 

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