民主主義の終焉と命優先主義の始まり

民主主義といえば、国民による選挙が思い浮かぶ。

そして 選ばれた議員が法律や定めたり、政策を決めたりする場合

最終的に「多数決」で定められる。

これは多数の意見が正しく、少数意見が誤りであり、少数意見の者は多数意見の者に従えということでもある。

日本が太平洋戦争した時、多数が戦争賛成であり、少数が戦争反対であった。

歴史的にみて、多数の国民が戦争賛成して実行されたことが正しくはなかったと判断し 証明することだってできる。

それは多数決を正義とする民主主義は終焉したことを意味する。

 

平和の状態で、一人殺せば犯罪であり、多数殺せば凶悪テロであり、

戦争の状態で、一人殺せば正当防衛であり、多数殺せば英雄となる。

殺人の数と状況によって 正義は変わり、逆転だってありえることになる。

それが民主主義の多数決優先正義であり、それは独裁政権の横暴と同じ 多数集団の横暴テロであろう。

独裁政治と民主政治の違いは一人で決めるか、多人数で決めるか それだけの違いである。

 

では多数決に代わるより正当性な決断とは何だろうか?

これは命の選択として、自分の命をどうするか 自分で自分の道を決断する行為でもある。

自分の命は常に一つであって、自分の命が多数あることはできないし、存在しない。

それは一人殺すのも 多数殺すのも同じという凶悪犯の論理の正当性でもある。

最近自爆テロで、自殺しながら多人数殺すことがあちらこちらで出てきている。

平和な日本だって、自殺願望の者が無差別テロで次々殺す犯罪が起きているのもそうだ。

この自爆テロや無差別殺人は民主主義の横暴の顕れともいえ、多数による暴力犯罪ともいえるものだ。

こうした多数の命と一つの命を差別することはヒューマニズム人道からも受け入れることはできないし、

どんな人間も一個の自分という命でできており、多数の自分の命でできるいるわけではないので、多数の命など存在しないといっていいのだ。

そこで、多数決に代わるより正しい決断は自分の命における自分の判断基準に照らすことがよいことになる。

例えば

ダイエットするかどうかの判断をする、より自分が長寿できる食と運動の生活スタイルを優先する決断をするだろう。

それは多数の命ではなく、一個の命の長さを最優先する決断をするもので、多数決ではなく長寿決に代えることだ。

民主主義の選挙では議員や党を選ぶが

長寿を優先する命の選挙では政策を選び、選ばれた政策を最も進める立候補者が入選することになる。

例えば 国民は原発をどうするかの選挙が実施された場合、脱原発が最も多くの国民の意思であったと判断された場合、立候補者は脱原発への意志が最も強い人物や党から入選するという選挙に代わることになる。

民主主義から長寿命主義に

多数決から命最優先決に!

 

 

 

 

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