前向きに生きるということ

 原発は事故があってもなくても、人類の失敗であった。それはゴミを資源にできないからだ。どんなゴミも再生できれば自然循環でき、人類はそのゴミで自滅することを免れる。

 「失敗は成功の元」である。

 失敗は失敗のままで終わってはならない。失敗を成功の元にすることが、自然に生きることであり、前向きに生きるということである。

 原発の発電を核爆発ではなく、他の再生可能なエネルギーに転換し、地熱発電に切り替えたらどうだろう。原発の大きなタービンをそのまま使い、原発を冷やす水循環を地下水との循環にすれば、まさにリフォームになる。

 地熱発電は温泉よりもさらに深く3000メートル以上掘れば可能である。それはまさに原発事故のメルトダウンで地下深く穴があくようなものである。

 核廃棄物は地熱発電よりもさらに深く数千メートル掘って、地球の核であるマントルに捨てるしかないのではないだろうか。  太陽は核爆発であるから、地球のマントルも核爆発の一種ではないだろうか。核廃棄物を地球の核にもどしてあげれば、放射能被害も防げるのではないだろうか?

 今、核廃棄物を地下数百メートルに埋めて、数十万年もその放射能を見張るのは、かなり無理がある。日本の核廃棄物をフランスのように、ロシアなどの他国に露天で放置するようなことも、無責任なことである。

 そんな核廃棄物を処理できないような技術を日本はベトナムに売ろうとしている。これはいわば不完全な技術、危険は技術を売ってもうけようとする悪徳詐欺と同じである。

  失敗は成功の元にしてこそ、人類が知恵で進化しか最大の強みである。人類は政治でも、あまりにも欲望的経済的損得で考えてしまい、命を守る地球環境の大事さを忘れてしまう。

 中国や韓国との衝突もまた欲望的経済的損得から生まれるものである。それらはお金の損得で考えようとうするから、衝突する。どんな闘いも、相手を倒して、自分を勝たせようとすることから起こる。基本的に弱肉強食の自己保存の法則である。

 しかし、人類が地球の生物を制する知恵は弱肉強食の自己保存ではなかった。江戸時代の仇討ちの奨めではなかったのだ。ともに生きる生き方であったのである。

 敵を倒しても、その敵を味方にする日本の将棋はまさに武士道の極意であろう。敵という失敗人も、見方という成功人にもなるというゲームのルールこそ、人類が生き残る知恵である。

 私の仕事で今困っていることは貸している倉庫をゴミ屋敷にして、その家賃までも滞納している人である。

 この賃料を払わないゴミ屋敷はいわば原発事故と同じに感じている。賃料を払わないから契約解除してしまえばいいというわけではなく、そのゴミ処置を業者に委託すると100万円近くかかる。

 そのゴミだって、集めた本人にとっては貴重で捨てられないものである。そのため、勝手に処分すれば法的に罰せられることだってあるかもしれない。

 実はこの人は隣町の数十階建ての一室の自宅マンションを持っていて、そこもまたゴミ屋敷にしている。そのため、他のマンションの住人ともめている状態で、私と同じ問題をかかえている。

 核ゴミを捨てられないで、それを溜め込む原発は、ゴミを捨てられないで、ゴミを集めて増やし続けるゴミ屋敷と同じである。原発の放射能はゴミ屋敷の悪臭と同じである。

 この困ったゴミ屋敷の問題を早く解決するには、経済的損得では無理であり、地球環境政策のように、「ともに生きる」ような前向きな政策が必要であろう。

 家賃を滞納するのはゴミを強制的に捨てることができる理由にもなる。もし、捨てたとして、裁判になったとしても、勝てる自信がある。数ヶ月前、駐車スペースにあったゴミの山を2ヶ月の猶予期間を設けて、強制的に処分したが、裁判にもならなかったし、何も言ってこなかった。その撤去費用の2万円を請求したが、それも払うことはなかった。

 とにかく、損を覚悟して、相手にも自分にもよい社会的環境を作るような手段をこうじることである。商売の基本にも「損して得をとれ」というのがある。武士道も、商売も、その極意は経済的損得を超えたところに、醍醐味があると思えるのだ。

   前向きに生きるということはともに生きるということだったんだ。

 

 

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