川の流れのように

 最近、亡くなった友人たちのことを思い浮かべることが多くなった。それはどうやらあの世に呼ばれてる兆候かもしれない。または、人生の折り返しをしていて、どう生きるかではなく、どう死ぬかということの計画をしているためかもしれない。

 どう生きるかを考えている時は、自分は何をしたいかどうかを探っていたが、どう死ぬかを考えている時は、自分のやり残しがないように、寿命を計算して計画実行している。

 天才とは何か?という何かの映画の場面があった。

「そこに才能があるかどうかなんかどうでもいいことだ。知らず知らずにそれを夢中でやっていることが、その才能があるってことだ」

 大体、その人の才能があるかないかは、他人が判断することで、自分で決めることではないからだ。努力が意志的な行動量であるならば、才能は無意識的な行動量であるといえるだろう。

 最近、ほとんどの人が金のためには働かないということに気が付いた。そこに山があるから登るというように、人はやりたいことをするために働くのではないか、そのやりたいということだって、希望とか願望とは少し違って、無意識にそれをやってしまうのが、働くということのように感じる。

 つまり、無意識的行動は才能であり、労働であるといえるのではないだろうか。

 このブログだって、書きたくて書いているし、リフォームだって、やりたくてやっている。収入のためではない。ただそれをしたいがためだ。しかも、自分の体力と気力があるときしかやらないので、気ままな仕事というだけである。

 幸いにして、私は自分がやりたいことのためのお金には不自由しない。そのため、金のために働くということは皆無だ。ただ、新しい挑戦をして試してみたいというだけの行動のように思える。

 自分が自分らしくなるようなことを望むので、いわば、自己証明をしつづけるようなものである。

 生きる目的など必要がないように、生きる意味も、死ぬ意味も必要のないものだ。昔、若者の生き甲斐というようなものが流行したことがあるが、生き甲斐とは生きる意味とか、生きる目的のことだから、そんなものは必要がない。

 生きては死に、死んでは生きていく、あらゆる命の生死の流れを楽しむ、ちょうど船に乗って川の流れを楽しむようなものである。その流れの先がどうなるかなんてことは必要のないことだからだ。

 そのとき、もし誰かの命の船の行き先が早死として見えていたら、それを止めて、一緒に寿命を楽しもうと語り合えばもっと楽しくなる。

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