欲望の限界

 現状で満足した方がいいのか、そうじゃないのか?

 長いこと望んでいたことが実現してしまうと、欲望のほとんどはそこで満足してしまう。

 これ以上望むことはいくらでもある。

 だが、それが自分だけじゃない大きなことだと、その望みをあきらめた方がいいのではないかと思ったりする。

 夢は必ずかなえるものだったら、実現可能な夢だけに絞った方がいいように思えるのだが・・・・。

 昔、「ありがとう」という言葉に凝ったことがある。

 「ありがとう」とは感謝の言葉であるが、そのときの心情は「すべてを受け入れる状態」である。それは、「自分のすべての欲望を消し去ってしまう」ことでもある。愛は「その対象のすべてを欲すること」で、「自分のすべての欲望を一つにする」ことである。感謝は「他の欲望を受け入れる」のに対して、愛は「自分の欲望を打ち出す」ため、正反対なものではあるが、相思相愛のような別角度からみると似ているものである。

 感謝と愛には必ず対象が必要であり、「・・・・にありがとう」「・・・を愛する」という目的語が必要な動詞である。このことは、その目的が「すべて」になってしまうと、実現性も具体性も、その言葉の重みもなくなる。てこの力の原理からいえば、力点がなくなってしまうような幻想と言葉だけの世界である。

 感謝は「他の欲望を受け入れ」、愛は「自分の欲望を与え」るので、どちらも心の力点としての「欲望」である。そして、その目的は具体的対象である。そのことは、「欲望が目的対象によって、限界が示される」ということにつながってくる。

 つまり、欲望の限界とは欲望の具体的目的対象をはっきりさせることなのである。

 「あきらめが肝心」は心の平静さであり、「けしてあきらめない」は信じる力の奇跡である。だが、どちらも、そこに具体的対象がはっきりしたものでないと、平安も奇跡の心も起きないことになる。

 ここで、やっと自分の今の心の状態がはっきりしてきた。どっちつかずの自分の欲望がうろうろしていたのは、次の具体的目標が定まっていなかっただけにすぎなかったようだ。

 さて、計画を練り直そう・・・ここからスタートだ!

 欲望の限界とははっきりとした目標のことだったからだ!

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