千里の道も一歩から
という諺の意味を大きく広げることが可能だ。
最近ずっと、コンテナの上に家を建てる鉄骨基礎をどう造るかを模索していた。あちらこちらのホームセンターやネットで、その材料やそれを接続する部品や加工する工具をみていた。
もし、まっさらな駐車場だったら、H鋼を鉄工所に依頼して加工してもらい、それをクレーンで組み立てればいい。鉄骨でなくても鉄筋コンクリでも同じことだ。
でも、私がこだわっているのは、自分で家を造ることだ。しかも、失敗しても、その家の部品を他に持っていって自分で組み立てられるようにすることだ。コンテナ付きの駐車場を造った時点では、将来、コンテナ改造して家を造り、それを倉庫コンテナの上に載せればいいと思っていた。
しかし、前の道路がせまいことと、電線がかなりあるので、それが難しいことが解ってきた。そこで、プレハブをコンテナの上に組み立てる方針に変えた。そのプレハブを乗せる基礎を鉄骨で造る必要があり、しかも、下の重いコンテナをほとんど動かさずに造る方法を模索していた。
それを可能にするにはどうしても自分で鉄骨を加工し、その鉄骨を接続する部品も、また、それを取り付ける工具まで手作りする必要がでてきた。プロだったら、きちんと設計して、そうした加工を鉄工所に依頼すればいいのだが、素人の自分には設計すら自信がない、もし設計ミスしたら、大量の鉄のゴミがでてしまう。第一、プロだったら、コンテナを移動させずに基礎を造るのは無理だとして当初から相手にしてくれないだろう。
でも、もし鉄骨や部品や工具まで自分で造れれば可能になる。それに、下のコンテナと合体させた基礎にすればかなりの強度な基礎ができる。それで、まず溶接技術を習得することから始めればいいだけだと気が付いた。
千里の鉄骨基礎も、溶接技術の一歩から
というわけだ。
話は変わるが、時々同じ夢をみる。それは新聞配達をしている自分が、ある家に配達し、裏にある次の家の配達をするとき、人の敷地を通ればすぐにでもいけそうなので行くが、どうにも垣根や塀があって、途中不審者に間違われて立ち往生している自分の姿である。
この夢は入り口と出口が違っていたことと、近道をしようとして迷ったことだ。急がば回れとは実にうまい諺である。ほとんとの家は玄関があり、そこが出入り口である。入り口と出口は同じ場所なのだ。
人生だって、家と同じで生死の出入り口は同じであろう。この世への入り口も出口も同じなのだ。もし、新聞配達する自分が裏口を通って近道をしようとせず、入った玄関から出て、同じ道を引き返し、回り道をして次の家に新聞配達をすれば、迷うことも立ち往生することもなかった。
これは、「初心忘れるべからず」という諺に生きている。ある大きな目的を達成しようとしたら、初心に何度でも帰ることが重要になる。
社会における一歩とは自己のこの世の誕生である。社会は個人の集合でしかないのだから。救世主であるキリストの誕生がその後の人類の目的の一歩になったように、どんな人であれ、この世に生まれた人はこの世界を築く第一歩である。
そして、社会は自他の絆で成り立っている。それは自他の命のバトンタッチで社会は発展していくという意味でもある。
自分の死は終わりを意味するが、その死をきっかけにして次の生にバトンタッチされるのは他人である。つまり、
自分の死も他人の一歩
であるのが、社会における絆であり、その生死の基本になっている。これは別角度からみると
他人の死も自分の一歩
といえるものだ。
「千里の道も一歩から」と「他人の死も自分の一歩から」は同じ人生の教訓になりえるものだ。
孤独に悩む人がいるが、どんな命も1人で形成されていない。人は食べなくては生きられないように、食べ物の命をいただいて生かされている。その事実からすれば、どんな命もみな一つにつながっており、それが絆になっている。いわば、
命は一つ
であり、その絆を壊すことはできないのが自然の掟である。孤独というのは土台ありえないことであり、それは「自分1人で生きているというオゴリ」である。エゴというオゴリと卑屈という厭世観は同じ出入り口にある。
孤独という鬱は病気である。しかも自分は1人であるという単なる思いこみから生まれたものである。どんな死も他人にとって無駄なものはないように、どんな人生であっても、無駄な人生などありえないものである。自分の死は常に他人の一歩なのだから。
それに、震災で亡くなった人の死は残された人の次の一歩になっているではないか。これが真実であり、孤独は真実ではなく、単なる思いこみにすぎないのだ。