昨日のユーザー車検が不合格になった、その原因を探っていくと、直接原因と、その原因を引き起こすような動機がいくつも重なっていた。
これは、人を助けようとして、その人も被害にあい、その被害があった人を助けようとして、その人も被害にあるような、二次三次災害というものがあるようなものだ。
これは善意の悪循環になる。人の役に立つ仕事も善意であるが、それもまた仕事の悪循環が起きることがある。
昨日の結果から、その原因を探っていくと、ミスが重なって大きくなっていくのが解る。
1,3回目のユーザー車検の結果、冷却水漏れ、オイル漏れで不合格。車は修理屋で、その代車で生活する。
2,2回目の車検はライトの高さを調整屋で修理して、合格したが、その時、突然の大量の冷却水漏れが発生した。
3,1回目の車検。ライトの高さを車内の備えられたダイヤルを0にしても、高さが不十分で不合格。他はみな合格した。
4,車の前でガタガタの音がするので、その音がする場所を探っていて、農道を走らせていた。狭い農道でユーターンしようとして、ハンドルを回しながらバックしたときに、左の車輪を溝30センチに落ちた。(この溝は以前にはなく、道路工事が途中であったためのもの)
5,ジャッキと石で溝から脱出し、他の車もその溝に落ちないように、その溝にたくさん石を敷き詰めておいた。家にもどると、エンジンルームから奇怪な音と臭いがするので、落ちて車の下回りをチェックする。
うすい下の鉄のフレームが凹み、柔らかい裏のバンパーカバーがオイルタンクの横に入りこんでいる。凹んだ下の薄いフレームをバールとハンマーで元にもどし、そのカバーを元にもどすと、静かなエンジン音になり、臭いも消えた。
6、その修理の際、正常な右のバンパーを比較した際、ビスが2本抜けており、裏のバンパカバーがパクパクしていた。それがガタガタの音であると思い、ハリガネで止める。これは明らかに修理会社のミスである。
7,前日、車検用の点検をする際、エンジンルームをあける。エンジンの上に、修理会社の40センチくらいの充電式LED懐中電灯が乗せてあるのを発見。それがガタガタする音の原因かと思ったが、それ以上に、この状態で半月も高速道路などを娘が走行していたと思うと、冷や汗をかいた。
もし、その懐中電灯がエンジンを回転させるファンベルトにすべり落ちたら、大きな死亡事故が起きたと十分想像できた。もし、それが高速道路だったら、他の車も巻き込まれて、大惨事になっていただろう。娘の命も危なかったのである。
8,車検用に、車の下回りを洗い、規定のマニュアルに従って点検した。冷却水は少なかったので、多めに補充しておいた。(車検の2回目で、この冷却水が多すぎたため、キャップがはずれ、そこから漏れだしたと思い、その量を減らして、3回目の車検に及んだ)
車のガタガタ音に原因を探り、それがタイヤのボルトのゆるみが原因かと思い、点検再度締め付けたが、正常だった。
9,追突事故を起こして全面を全部保険で修理した(修理費用70万円)が、修理屋からフロントガラスに傷があるので、それは車検は通らないという。そのフロントガラスの傷は3年前に前を走るトラックが石をはねとばし、割ったものだ。大した傷でないので、接着剤で私が補修した。車検がすぐなので、過去の保険にさかのぼってフロントガラスを取り替えた。(取り替え費用12万円)
このフロントガラスの取り替えが原因で、車のフロントガタガタ音が発生した。修理屋は接着剤が固定していないと説明し、様子をみるようにといった。そして、ユーザー車検が終わってから、その修理屋にガタガタの原因を修理させようとしたが、車検に通らないと思い、自分でそのガタガタ音の原因を探ろうとした。
10,娘が過度な仕事で疲れ、朝9時、いつものトンネルを抜けて、信号待ちしている前の車にブレーキをかける暇なく、突っ込んでしまった。
前の車はトヨタの新車で。二人の熟年男性。車は全損し、修理不可能。(当方の保険負担額170万円)、娘の車の全面破損(保険修理費用70万円)、相手にも娘双方にも怪我一つなく、なんの問題なく和解。
保険屋が代車がでる修理屋を紹介し、そこで修理される。
さて、今回のユーザー車検が3回不合格だった原因をさぐると、直接原因は4番目の私が農道の溝が落ちた運転ミスである。
しかし、1回目の車検で、もし修理屋がライトを交換した際、その調整の整備をしていたら、なんなく合格していたのは確かだ。
また、フロントガラスを交換した修理屋が、懐中電灯をエンジンルームに忘れたり、ビスを全部はめており、ガタガタ音がしなかったら、私はそのガタガタ音の原因を探って、わざわざ農道を走らせ、溝に落ちることもなかった。
もし、修理屋がフロントガラスの傷が車検には通らないということをいわなかったら、修理することもなく、そのままでも、ほとんど気が付かない傷なので、車検は通っていただろう。
もし、保険屋が事故の際、その修理屋を紹介しないで、自分で探したら、こうした整備不良は起きなかっただろう。
もし、娘が追突事故を起こさなかったら、なんの問題なく、ユーザー車検は通っただろう。
もし、私がガタガタ音の原因を追及しなかったら、農道の溝に落ちて、車を破損することもなかっただろう。
つまり、もし・・・・・が、動機なのである。動機は間接原因ともいえるかもしれないが、間接の間接の間接の原因といえるように、責任力はなく、直接原因だけが全責任になる。
「生きた結果」よりも「生きる方法」が大事であるというのが、私の見解である。
結果があれば原因がある。その間に方法がある。結果がすべてだったら、原因もすべてである。しかし、ユーザー車検3回も通らなかったというえ結果は、その直接原因である私が運転ミスがすべてだったのであろうか。
具体的結果もその直接原因も、一つである。これが真実は一つであるといわれる所以であるのだろう。しかし、その車検が不合格であるという結果が一番大事でも、その直接原因である私の運転ミスが一番の責任かというと、違うであろう。
結果も、その原因も、すべてはなく、ただ一つであるというだけに過ぎない。すべてであるというのは、原因結果以外の多くの動機であり、いろいろな間接結果と間接原因である。
そして、結果と原因の間にある、動機を含めた方法や展開の一つ一つで大事であるといえるのである。
誰でもミスがある。そのミスをどう責任をとるかということが、そのミスやその結果よりも重要であるのだ。
「相田みつを」の書に、「いつどこで だれとだれが どんな出逢いをするのか それが大事なんだなあ」とある。
この具体的な一つ一つの出逢いというのは、いわば、原因と結果に間にある動機であるともいえる。その出逢いという動機で、二人は何をしようとしたのか、それが大事であるということだ。
先にあげた10はすべて動機であるともいえる。その一つ一つの動機が大事であり、特別な直接結果と直接原因だけがすべてでも、一番大事ではないのである。
それは一生よりも今日の一日が大事であるということと同じで、今日一日何をしようとし、何をするのかということが、どんな結果なろうとも大事であるということだ。
ある自殺者を救おうとして、相手も救えず、自分も死んでしまったということがある。この時、自殺者は原因であり、結果は自殺者と救おうとした者の両者の死が結果である。
その動機は救おうとした者の意志であり、それが原因と結果よりも大事である。もっとも大事なのは、救おうとして何をしたのか(その対処方法)である。
自分も被害が合わずに助けられる方法が他にあったかどうかというのももっとも大事な方法と対処である。
小さなミスがさらに大きなミスにつながることがある。復讐の連鎖による死亡者に拡大もある。これらを最小限におさえることがもっとも大事なように、その動機とその一つ一つの対処方法がもっとも大事になる。