To do first is to be,To do last is to be.

To be is to do.という言葉を知ったのは

”64歳でキューバからフロリダまで177キロを泳ぎ切ったダイアナ・ナイアドがTEDの: 夢は決してあきらめるな”でした。

彼女が泳ぎ切った時に3つの成功のコツを話した。
その前置きが、
We did, not I did.” 私の成功ではなく、我々の成功でした”と、to do を成功の意味で使ったのです。

1 Never give up. 夢はけして諦めるな
2 夢を追いかけるのに 何歳になっても遅くはない
3 一日一日を夢の実現に向かって勇敢に進んでいこう

その1 の夢をけして諦めるな!で語られた言葉が
to be is to do. 存在は行動なり。
ダイアナはソクラテスの言葉?だと言ったので、調べてみましたら、
“To be is to do” (Kant)
“To do is to be” (Sartre)
“Do be do be do” (Sinatra)・・はつい笑ってしまいました。哲学は歌や漫才にするといつも笑いになるかも。

マルセ太郎にとって、to be は自己存在、オンリーワンの自信であり、

ダイアナ・ナイアドにとって、to do は夢の実現に向かうこと、成功である。

私のこのブログは”生きているということ” であり、ハムレットと同じ、まさに”To be” ”生きるべきか?大阪弁の”やったろうか?”なのだ。

関西人のように、to be と to do は区別できない同じ意味で使える。あえて、区別するなら、to be は静的禅であり、to doは動的禅であり、目的の悟りは一つということになる。

”今生きているということ それは・・” は谷川俊太郎の有名な詩である。その内容は 事物をそのまま受け入れるような ” To be “である。そして、老子思想の”道”に通じることであり、”あるがまま” ”なんくるないさ” ”自分らしく””自然に” の心を表している。それはダイアナ・ナイアドが泳ぐとき、何度も歌ったジョンレノンのイマジンにおける Living for today  今生きているということの英訳そのままでもある。

” To be “は天国も地獄もなく、宗教や国の違いもない自然の状態をそのまま受け入れることであるが、 To do “はまさに人為的なものであり、そこに夢と現実の矛盾、成功と失敗、生老病死、天国と地獄、戦争と平和と喜怒哀楽様々な姿が映し出される。けして、 To be is to do. To do is to be なんてありえないものと思える。むしろ、自然とは無人為であり、 ”To be is not to do.” ”To be is  to do nothing” (何もしないことで自然にまかせること。無為自然)であることの方が正しいのではないか?

天国も地獄も、神も仏も餓鬼畜生も、みな人間が作り出したものである。国の政治や国連そして貨幣も原爆原発も、みな人間が作り出したものである。

ダイアナ・ナイアドには失礼かもしれないが、キューバからフロリダを泳いで渡ったところで、人類にとっては成功かもしれないが、地球にとってどれほどの成功だといえるだろうか? クジラやイルカでもできることではないか。

しかし、ダイアナ・ナイアドのなした成功は人類にとってまぎれもなく価値があり、感動と勇気を与えてくれたことである。もちろん、クジラは何も賞賛はしてくれないけれどね。

青年のころ、世界を知るにはまず自分を知れ! という言葉を信じた。自分とは何か?何か?何か?・・と 般若心経を唱えるように、自分は身体でもなく、感覚でもなく、心でもなく、また意識でもなく・・・自分とは何か? 否定できない自分に行きつくことができるのが なんていうことはない。仏教の元になったヒンズー教の根本的な教え「梵我一如(ぼんがいちにょ)」であり、梵は宇宙・神・仏であり、我は本当の自分のことであるから、「本当の自分は神仏なり」ということに落ち着き、それが解脱であり、悟りになる。

これはキリスト教における最初の信心「神を信ずれば救われる」と同じで、ヒンズー教仏教の最初の信心「仏我一如」(仏を求め極めれば悟り救われる)に最後も行き着くことになるだけで、最初に設定したところに最後も行き着く、それは幸せの青い鳥を求めて旅立ったら、その青い鳥は出発地の家にいたということでもある。

老年になって、自分をある程度知ったところで、自分は確かに変わったかもしれないが、世界はなにも変わらないことに気づいた。自分の悟りも世間にとっては自己満足とさほど代わりがない。私が東京でのリフォームも、大雪で壊れたビニールハウスの撤去も、この自己満足の仕事にすぎない。それをしたからといって、世界に何も働きかけるものではなし、人のためになることでもない。まったくの自分だけの道楽にすぎない。

人にまた後世の人に役立つようなことをするには、なにかしらの小さな親切をすることであり、特に後世の人の命を左右するような政治に対しての自分ができる行為をすることではないだろうか。

宗教的なことを求めた昔の自分から、生活に密着した貨幣や政治について学んでいこうとする自分がいる。原発と被爆を学んで、即脱原発の必要性を知って、それを実現すべく加勢して失敗したとしても、そこに価値や生き甲斐があるように思えるのである。

つまり、” To do “は”To do first&last” が肝心であり、その結果成功しようが失敗しようが 問題ではない。信じたこと、夢見たことに向かって挑戦することがすべてである。

なお、ダイアナ・ナイアドが3の日々夢の挑戦を!という説明をするときに、「森の生活―ウォールデン」を書いたヘンリー デビッド ソローの言葉を引用したが、彼女の言った意味とは少々異なっている。

自分の心に描く夢の現実に向かって努力する時、ふだんなら思いもよらぬ、成功が得られる。
空中に楼閣を建てても無駄骨には終わらない。楼閣は空中に建てるものだ。
さあ、その下に土台を建てよう

明日はどうなるか 誰も予想もつかないことが起こるものだ。

最近世界のあちらこちらで、想定外 まさか のことが毎日のように起きているではないか。

それが悲しむべき災害であったり、嬉しきことの奇跡であったりするが、みな思いもよらぬ出来事である。

そうした出来事は最初の第一歩にあり、それが行為の土台であり、” To be ” なのである。

To do first is to be という夢への挑戦であり、

To do last is to be ・・・なるようになるさ なんくるないさあ

である。”To do first&last is to be always”

夢の結果がどうであれ、それに挑むことが自然なんだ。

それが人間であり、他の動物だってそうなんだ。

たとえ明日世界が滅亡しようとも、私は今日、リンゴの木を植える(マルティン・ルター)の格言のように、

たとえ明日世界が滅びようと、自分が信じた夢に向かって挑もうではないか!

To do first is to be,To do last is to be.

夢に向かって挑めばなんとかなるさあ!

 

 

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