挑戦するは昨日の我にあり

意識すれば、その方向に無意識はついていくが、

意識しなければ、無意識の方に意識がついていく。

昨日の自分は無意識の自分である。

明日の自分なんか、どうなるか? 神様でも見えないのだから、自分だってみえない。

はっきり見える自分はまだ忘れていない昨日の自分である。

昨日の自分に挑戦する今日の自分を意識すれば、

昨日の自分は今日の自分についてくる。

今の自分を意識すれば昨日の無意識の自分が付いてくる。

 

挑戦するのは他人ではない、それぞれがオンリーワンの存在であり、それぞれの環境や才能があり、そもそも他人とは比較さえもできないのが、真実である。

もし、他人と競争して、ナンバーワンを目指すとしたら、それは実に空しいことである。どちらが勝っても負けても、一方が勝てば他が負ける。みんながナンバーワンなんかなれやしないのは明らかであり、大事なのは弱肉強食ではない。強い者も弱い者もともに助け合って生きることである。

同類でない種同志であれば、動物が植物を食べる、虫を食べるということがあるが、人類は人類を殺して食べないように、同類同志で殺して食べ合うことはない。弱肉強食は動物と植物のような関係であるが、強い動物が生きて、弱い植物は死んでいくだろうか? 動物は植物を食べて、糞をしたり、その死骸は、明日の植物の肥料となって、植物の食べ物になる。だから、共存共栄がその実態である。

神が絶対的な存在として意識されるとき、神に相対する悪魔は存在しない。

神は人の心の中に在るというのが、古今東西の認識であるが、神が絶対的存在あり、すべての人間の心の中に住んでいるとしたら、それぞれが信じ頼る神は相対ではないので、比較することも、競争することも、戦うこともない。また、自分の心に中に絶対的神を信じるならば、その神と相対する悪魔は存在できないし、それを想像して設定してしまえば、矛盾に陥ってしまう。

つまり、すべての人の心の中に存在する神は絶対的な存在として信じられるならば、それはオンリーワンとしての自分のことである。そして、他の人と比較することはできないので、他をみるときは、「みんな違ってみんな良い」という意識にならざるをえない。

動物と植物のように相対的にみるならば、それは他人でも、自分の神ではなく、自分の過去と自分の今の関係でしかない。過去の弱い自分を殺して食べ、今の強い自分が生きることは弱肉強食の関係であり、かつ、それは共存共栄の関係あり、毎日のように細胞の新陳代謝がそうである。昨日の自分を殺して、今日の自分が生かされているのである。

つまり、昨日の自分に挑戦して、今の自分が試され、生かされるということである。

 

昔、「復讐するは我にあり」という映画があったが、

 

それはこう転ずることができる。

「挑戦するは昨日の我にあり」である。

 

 

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