みんな違ってみんな善い
という見識すると、会う人ごとに
みんな 独特の思い込み をしていると 気づかされる。
他人は私の鏡となって、
私も 独特の思い込み をしていると 知らされる。
自分が 内容のない馬鹿げたドラマ・映画を好んで観る時間が多いのが、
自分への七不思議であった。
だが、自分も この内容のない馬鹿げた考え方(思い込み)を無意識にしていると気づかされる。
自分の無意識と有意識とはけっこう逆なことが多いのである。
そのためか、無意識と有意識の間で葛藤(ストレス)が自分の心の中で、たびたび起こる。
それは人とのコミュニケーションでも起こることで
有意識同士では争いはあまり起こらないが、そこにどちらか、また両方も無意識が入ってしまうと、言い争いや喧嘩が起こる。
無意識と有意識とどちらが良いかどうかは ケイス バイ ケイスで、常にどちらか一方が良くて正しいというのではない。
それは みんな違ってみんな善い という見識を応用して、
無意識と有意識 どちらも違って どちらも善い
という切り口で、臨んだ方が 平和的自己鍛錬法であり、平和的コミュニケーション技法であろう。
みんな違ってみんな善い という見識には、悪いという考え方(思い込み)が無い。
善悪のような相対論は 一言 みんなの違い によって把握される。
それは現実的においては
自分の心でも、自他のコミュニケーションでも、一見、良い悪いの言葉の押収があるが、真に悪いモノ(人・思い込み)はなく、在るのは 真に善いモノ(人・思い込み)しかないことだ。
夢は想像力
夢は無意識の空想であり、想像は有意識の空想である。
天才は無意識の行動であり、努力才は有意識の行動である。
その夢・想像が妄想か悟りかどうかは、ほんの一部しか通用しないか、全体的に広く通用するかの内容の差であろう。いわば、群盲象を評す 状態において、真実の象にどのくらい近い広い視野に立っているかで決まってくる。
その視野は時間的な過去現在未来に通じて、どれだけ長い時代に通用する見識による想像力かというのもその範疇に入る。
これら空間時間においての、夢・想像されたモノが
現実・自然という制約に実験経験に試されて、5W1Hの具体的事象に構想されるで、成功失敗が生まれる。
夢・想像が現実・自然に照らしあわされて、夢・想像を再構築することを 構想力という。
この構想も、無意識・有意識的にもされるもので、その結果の成功・失敗も、それは狭い視野におけるものにおいては相対するが、広い視野においてはどちらも真の成功でしかない。
みんな違ってみんな善い
といことは、成功・失敗のような相対する内容なもの、それは生死においても、空間時間的に、広い視野を持つならば、その成功もその失敗も真に成功でしかなく、その生もその死も真に生きていることでしかない
ということである。
つまり、
相対的なものは狭い視野から生まれる見識であり、広い視野から生まれる見識には相対的なものは平等な違いしか感じられない。
例えば、一枚のコインの裏表を見てみよう。
コインの表だけでも、コインの裏だけでも貨幣として通用しない。
コインの裏表あって、初めて貨幣として通用する。
損得は借り貸し、勝負と同じ、同じ数の価値があり、片方だけでは価値はない
人生における一時的な成功も失敗も 片方だけではありえない。両者あってこそ成り立つ
命の生と死も 片方だけはありえない。両者の空間的な存在、時間的な繰り返しあっての実在である。
見える見えないがあるように、有意識も無意識も、両者あっての生命調整維持ができる。片方だけでは調整はできない。交感神経と副交感神経のように。
相対的な事象だけでなく、群盲象を評すような姿も、組織の大小あれど、その構成員のそれぞれの個性がみんな違って、みんな輝くダイヤモンドのような見識が みんな違ってみんな善い というものである。
思い込みは文化として輝く
世の中に、
みなそれぞれの信念、妄想、悟り、考えなど、それらを単なる思い込みとして表現してみても、
それぞれは それぞれの個性的な生き方としてとらえることができる。
何が誤り、何が正しい、というのは狭い了見から生じる。もっと広い視野に立てば、
どんな思い込みであろうと、それが生死にかかわる重要なことであろうと、
それぞれの思い込みは古今東西の文化として、平等な価値をもった存在であろう。
みんなそれぞれの思い込みをして、それぞれが美しく真に生きて輝いている