個性と社会
社会が個人の集まりであるから、個人の健康・平和・自由が最も尊重される社会が健全である。
社会的権力で、個人の自由や健康な命、平和な暮らしを弾圧するならば、その社会は病的不健全である。
個性こそ神仏である
- 数千年にわたって、社会は個々人の身体を武力で、心を神仏で統制している。
- ここ数十年で、武力は核兵器に、宗教は科学に変り、社会は個々人を武力や神仏で統制できなくなってきている。
- 武力は人間の意志の道具であり、神仏は個々人の心の中にあるという真実が認識されてきた。
- 個々人を統制できる力を持っているのは個人の意志・意識であり、その意志・意識をもたらすのが、生まれながらの才能とその時の環境により形成される個性である。
- 武器や神仏に代わって、個々人を統制する力は個性である。
真の神仏は人の意識と心に存する。
それ故に、今生きている人間の70億の数の神仏が存在する。
社会が人間の身体のように機能すると健全になる
社会を自分の心身とすれば、一細胞は個々人に当たる。
社会は個人の集まりであるゆえに、自ずと、社会は人の心身のような構造になっていく。
- 神経は情報
- 血液はお金
- リンパは廃棄
- 骨格と筋肉は伸縮構造
- 内臓は役割機能
- 皮膚は防御
機能に当たる。
そのため、社会の基本は人の心身にあり、問題があれば、人の心身の原点に戻って考え直すと解決への糸口が見えてくる。
武力による根本解決はできない
- 個々人が「健康・平和・自由」を求める真実から、社会が築かれるのだから、社会的権力者が庶民の1人の「健康・平和・自由」を奪うあらゆる行為(武力・情報操作・強制など)は許されない。
- 特に武器による殺人は社会の存続そのものを否定することであり、それが正当防衛としての殺人であってもそうである。
- 武力による殺人は社会の根本問題解決はできないだけでなく、より病的な悲惨な問題を多くさせてしまう。
- 社会の根本解決はそのはじめの原因にもどり、その反省と除去によってしかできない。
多数の意見より自分の良心に従おう
- 多数決は多数の暴力であり、集団テロの危険があり、本来の民主主義に反する
- 何が社会のおける決定が健全か? その決定が、より「健康・平和・自由」がどうかオープンに科学的に検証されることである。
自分の良心とは自他の健康・平和・自由であり、民主主義における多数決はしばしば集団暴力と弾圧になり、少数の意見は無視されたり、迫害されたりする。
そうした場合、自分の身を守るための嘘や口合わせも許される。
そうした態度も危険になる場合、「見ざる・聞かざる・言わざる」「触らぬ神に祟りなし」というようにして、黙秘権を行使することで身を守ることである。
自分の自由が許される範囲内では、自他の健康・平和・自由を最優先していくことが社会の健全化にもっとも効果があると思われる。
生きている者だけが存在する
- 個性は生きている者だけが持ち、死んだ者に個性はなく、あるように見えるのは生きていたときの姿の思い出しである。
- 霊魂・神仏とは「存在しないものを絶対存在」として権威者が認証し、生きている民衆を統治する道具・洗脳・学問である。
- 死んだ者は存在しない、その霊魂も存在しない、今生きている者だけが存在し、真実を表す。
- 存在はつねに新陳代謝のように、つねに新しい自我であり、固定した神仏よりも確かな真善美の究極の姿である。
- 個性は生きている者の真実の姿であり、その個性に優劣も、善悪もなく、比較さえもできないものである。数字のように、個性の量を数えられるものではない。多数の横暴な民主主義は個性を抹殺した論理であり、個性に多数少数などというジャンルは存在しない。
- 個性こそ、社会 生きとし生ける者の最高の宝であり、目標であり、原因であり、神性かつ知恵の泉である。
昔の偉大な人物を今生きている人間よりも大事にすることは本末転倒なことである。
死んだ者は今生きている者の想像でしかないからであり、真に存在するのは今生きている自他の人間である。
どんな神仏また先祖よりも、今生きている自他を大切にしていくと社会問題が解決していく。
個性はiPS細胞のように社会の機能に成っていく
- iPS細胞(人工多能性幹細胞 induced pluripotent stem cell)、人間の皮膚や血液などの細胞に特殊な因子を導入培養し、神経・骨・筋肉・血液・臓器など様々な種類の細胞にる。
- 個性は身体の多能性幹細胞として、分裂また増殖して、個性ある一社会のあらゆる機能に成長し、社会を支えることができる。
- 個性は独自の姿であるが、挑戦と反省をしながら社会の歯車のように欠かせない大小の機能になって個性的社会を形成していく。
- 個性は「愛と自由」の「足りぬものと足りるもの」「求める者と求められる者」「需要と供給」のマッチングによって、その土地、その時代にあった独自の社会を形成する。
個性は細胞のように新陳代謝し、心身のそれぞれの機能に形成されていく。
それは「自分というものがある」というよりも、自分自身を一生涯形成し続けるということであり、「自分になっていく」ものである。
過去の自分はいわば死んだ自分であり、今の自分だけが生きている自分、本当の自分であるということでもある。
個性も社会も、固定化したら、それは死んだ世界だと言っていいだろう。
自分も社会も、常に新しく生まれ変わっていくというのが真実の姿であろう。