Ninja Kenbiki Night

3月 14th, 2017

明日、外国人記者クラブで開かれる”Ninja Kenbiki Night”に行く。

健康と自然の会の講師二人が講演するからだ。

映画の影響か、外国人には多彩な技を使う武士をみな忍者に見えるようだ。

柳生心眼流に伝わる人を殺す殺法と、人を活かす活法があり、

その活法の中に「腱引き」という痛みを解消する技がある。

痛みを感じる筋肉の腱を太い弦を鳴らすように指で引くと、収縮して凝り固まった筋肉が弛緩して、痛みがとれるというものだ。

外国人にとって、西洋医学にも東洋医学にもない、武士道の中から日本独自に発展した痛みを取る医療技は実に不思議な忍術のように見えるのかもしれない。

外国人記者クラブの場所が有楽町、地図でみると、桜田門の近くにあり、ここ157年間の歴史が垣間見えた感じがした。

殺された大老井伊直弼の彦根藩邸はなんと国会議事堂の前庭にあった

桜田門外の変は、米英仏から開国を迫られ、幕府の開国派の井伊直弼と、尊王攘夷派の徳川斉昭との争いから生まれた。その1860年3月3日を機に、大きく時代は幕末から明治大正昭和平成へと変ってきた。

この桜田門の中心にして、皇居、警視庁、国会議事堂、外国人記者クラブまでの数百メートル圏内で、現在までの157年間の歴史を振り返ることができる

外国人記者クラブは差し詰め黒船ペリー来航にあたるだろう。

井伊直弼はペリーが幕府に献上したピストルを複製した水戸藩製のピストルの銃弾一発で殺された。

武道には西洋のピストルの殺法はない。ピストル殺法に対する活法も人体から玉を抜き出す手術に発展し、剣の活法は刀傷や当身にたいする手当から発展した骨接ぎや腱引きであったとも言えそうである。

原爆という殺法に対する活法はなんであろう? その核ゴミの放射能半減期は10万年の被害を治療する活法は「原爆・原発」製造を止めさせる平和法しかないだろう。

 

依存症からの脱却9/目的と手段をはき違える社会病

3月 14th, 2017

煙草やパチンコ、食べ過ぎ依存症の原因である「目的と手段のはき違え」は

社会の事業や政治にも応用できる

事業目的とその手段としての金儲けをはき違え、

政治目的とその手段としての権力をはき違え、

それらは金儲け依存症。権力依存症として、本来の事業目的・政治目的から退化していく社会病である。

大企業が本来の事業目的を放棄し、金儲けに依存し、お金の実体である「借金」に隷属して、他企業に事業の目的である魂も体も売り渡してしまう昨今も、

政府が本来の国民の命を守る目的を放棄し、財界権力に隷従して、経済目的を最優先する旗をあげて突き進んでいる現在の状況も、

政治も事業も その本来の目的は国民の命を守ることであるが、その手段である権力、その権力の手段である金儲けを、目的化させ、「国民の命」を手段化させた、権力と金儲け依存症による社会病である。

それは「国民の命を守る」目的から、どんどん退化して、「国民の命を破壊する」方向へと進んでいく。危険な原発ゴミを生産し続け、他国の戦争に加担する戦争と武器輸出を合法化し、「国民の命を守る」目的の憲法そのものを権力で改正して、「国民全体の命を守るために、一部の国民の命の犠牲もあり」という矛盾、「平和のための戦争あり」という矛盾は、「平和のための戦争は手段にはなり得ない」ことを「あり得る」という錯覚である

こういう錯覚は「多数意見は正しく、少数意見は間違い」というものである。それは「全国民の命は少数国民の命の犠牲で成り立っている」というのも同じ錯覚である。

生きるのに必要のない依存症に部類にそれらの社会病・錯覚が入る平和のための戦争は必要ないし、全国民の命を守るために少数の命を犠牲にする必要もない。多数意見を正しくするために少数意見を間違いとする必要もない。

生きるに必要のないものを目的化した依存症は麻薬中毒のように、そこからの脱却には大きな勇気と努力が必要になる。大きな勇気も大きな努力も、一人一人の小さな勇気と努力を合わせて、同じ目的の方向に力を合わせれば、できるものである。

政治本来の「国民の命を守る目的」を

金儲けとその手段の「景気回復」に目的化させてしまった

社会病・経済依存症の泥滑にはまり込んだ安倍自民党であ

依存症から脱却8/少しの努力

3月 13th, 2017

禁煙や禁パチンコが成功できた私だから、ダイエットも同じような努力をすればすぐ実現できると挑戦して、もう4年目だが、未だに成功するどころか、リバウンドでして退化しだしている。

それは食欲依存症は他の依存症とは根本的に違うから、同じ方法が通用しないどころか、同じ方法を試してしまうと、逆効果でリバウンドばかりではなく、より肥ってしまうのである。

食欲依存症と他の依存症の根本的違いは

煙草もギャンブルも、生きるのに必要のないものだが、食欲は生きるのに必要あるものである

煙草もギャンブルも、一本も吸わず、一度もしないという努力で、その依存症から脱出できるが、

肥満は一度も食べないでいれば、飢えて死んでしまう。断食を3日ばかりすればすぐ痩せるが、その努力の反動でより食べ過ぎてしまうため、逆により太ってしまうのである。ストレスはバネのようなもので、強いバネを圧するとより大きな反発力が生まれるからである。

肥満は食欲依存症というより、食べ過ぎ依存症と言い換えた方がより真実であろう。

食べ過ぎ依存症は相対的なバランスの問題であって、他の煙草やギャンブルは五次元の必要あるか、必要ないか、であり、それは0か1 であり、そして、1=All である。そのため、1本=数億本も同じであるから、それを認識してその依存症から脱出できる。

食べ過ぎ依存症は相反する力のバランスを 1 : 1にするのである。

食べたい欲求1:食べたくない欲求1 のバランスを調整する。いわば、筋肉の収縮1:弛緩1

自律神経の 交感神経1:副交感神経1 のバランスである。

これらの力のバランスは車のアクセルとブレーキに例えられる。

食べたい欲求はアクセル

食べたくない欲求はブレーキ

である。この両者の調整が食べ過ぎ依存症からの脱却である

 

今日も山登りをしてきた。

下山が苦手で、滑らないようにゆっくり下山するのだが、ブレーキをかけすぎて、軽快に降りられなく、また、急斜面は大きなブレーキをかけるので、足先と靴がぶつかりこすれて、指にすぐ靴擦れを起して痛くなり、その痛みを抑えるとさらにブレーキをかけるので、より苦痛が多くなる。

今日は靴擦れを起さないように地下足袋をし、下山をするときはなぜか軽快だった。いつもはブレーキを大きくかけて、できるだけゆっくり降りるのだが、今日は飛ぶように降りていくのはまるで鹿と同じような動きだった。

いつもと違うのは、重力だけに軽いブレーキをかけていたことだ。車でいえばエンジンブレーキであり、いつもはフットブレーキばかり使って下山していたことに気が付いた。

雪道でも、強いフットブレーキはよけい滑るので、エンジンブレーキの方が滑らない、また滑った場合、滑った方向にハンドルを向けるとブレーキがかかる。

これは下山する足のブレーキと同じで、エンジンブレーキのように、重力に対しての反発するだけの軽いブレーキ(体を支えるだけ)をかけ、しかも、足の回転を止めないで、滑りそうな方向にもう片方を足を運ばせてしまうと、もし、すべった場合、尻もちつかずに、前に進んだ足の方向に体重はいく、それも滑るとしても、もう片方の足は先に進んでいる。

まさに、雪道のエンジンブレーキと滑ったときのハンドル裁きと同じ下山方法なのである。

食べ過ぎにブレーキをかけるのも同じで、少しの努力(ストレス)のブレーキをかけて、けして大きな努力ストレスのブレーキをかけないことである。そして、食べる先の内容の方向に意識を飛ばしてしまい、目の前の食べ過ぎ内容にこだわらないことである。

 

エンジンブレーキに相対するのが、ゆっくり加速するアクセルである。急発進急ブレーキは事故の元といわれるように、ゆっくり加速すると、エンストのように失速しない。また、アクセルを踏まなくても、慣性また惰性で、動き続ける力に任せると、余分な筋力や心力を使わなくてすむ。

この動き続ける慣性力を使うのがエンジンブレーキの相対する。それを引き起こすのが少しの加速力(努力・ストレス)である。

慣性と惰性は物体の動き続ける、止まり続ける、同じ状態を保ちつづける力であるが、ほとんど差がないので、私は今後ややこしいので、次のように使うことにする。

慣性は動き続ける力

惰性は止まり続ける力

慣惰性は同じ状態を保ち続ける力

の三つの使用法とする。

エンジンブレーキは惰性力、エンジンアクセル(回転力)は慣性力となり、

自然力は慣惰性力と表現できる。

 

食べ過ぎ依存症からの脱出法

 

これは食べる時は少量をゆっくりと食べるのがエンジンアクセル

ダイエットは毎日少量だけ、長い日数をかけて減らすのがエンジンブレーキ

そのエンジンブレーキに切り替える少しの努力(ストレス)と

エンジンアクセルに切り替える少しの努力(健康意識力)で

食べ過ぎないように方向調整(ハンドル)していく。

これを少しの努力ダイエット法とでも名付けてみよう。

この「少しの努力法」は病気回復や予防法、体力作りにも応用できそうである。

肥満は病気の一種であるように、病気も必要以上また必要以下になってしまった慣惰性で凝り固まった血行不良の状態ともいえるので、その状態に少しの努力(ストレス)を繰り返すことで、血行回復、血行良好維持ができる。

もし、大きな努力したり、全く努力しない時は、その慣惰性で、凝り固まった状態を保とうとする力で依存症(わかっちゃいるけどやめられない/やればできると思うけどやらないでできない)となり、病気のまま脱却できなくなる。

少しの努力は少しの勇気を奮い起こして目覚める。

必要性のある依存症は少しの勇気と努力を

必要性のない依存症は大きな勇気と努力をすることで脱却できる。

 

依存症からの脱却7/勝っても負けても

3月 13th, 2017

パチンコの泥沼に入り込んだ時の心境は

勝てば嬉しくて またやり、負ければ悔しいので、またやる。

結局、パチンコ屋に儲けさせるだけで、その分損するのは

「わかっちゃいるけど、やめられない」

勝てばもっと儲けられると、負ければその分取り戻さねば気が済まないので

またやる。欲望は得られればもっと欲しくなり、得られなければまた挑戦しようとする

足るを知って、そんな欲望を捨ててしまえば楽になるのは

「わかちゃいるけど、捨てられぬ」

延々と続く、終わることのない欲望の連鎖は「終わる」ことを赦さない。

ヘビースモーカーになった時もそうだ

始めて煙草を吸った時は、その苦さと不味さで、吐き出した。

でも、周りでは美味しそうに吸っているのをみると、

本当に美味しいのか? 試したくなる。

二度目もマズイと思ったが、最初ほどの苦みは感じない。頭がくらくらするが、

なぜか、また吸って試したくなる。その繰り返しをすると、いつのまにか、

吸えば心地よく、吸わないといらいらする。だが、吸い過ぎると胃がムカムカし、気分がおかしくなる。でも、吸わないとイライラする。イライラを止めようとして吸い、吸っているときだけ安心して気持ちよくなる。

24時間吸っていないと、イライラは止まらなくなる。寝ていても、煙草を吸いたくなるので、吸っては眠り、起きてはまた吸う。

禁煙すればまた喫煙前の元の状態に戻れることは

「わかっちゃいるけど、やめられない」

どうしたら禁煙できるのか考えようとして

一服してから考えようとする。イライラしていたら、考えもまとめられないからだ。

何か物事に集中しようとすると、吸っていない状態のイライラは雑念である。吸うとイライラは消えるのでまた吸って考える。

イライラは吸えば吸うほど、吸わない時のイライラが強くなることは

解っちゃいるけど、吸わずにイライラは抑えられない。

3日禁煙したが失敗、1か月禁煙したが失敗、1年禁煙したがまたまた失敗

禁煙に挑戦し、失敗を重ねるほど、いつのまにか、一日3箱60本のヘビースモーカーの泥沼にはまり込んでしまう。

パチンコも喫煙も、そうして20年泥沼にはまり込んでいった。

 

そこから抜け出ることができた魔法の呪文は

「一本でも吸ってしまえば、一生涯吸わなければならなくなる」

「一度でもパチンコすれば、一生涯パチンコせざるをえなくなる」

たった一本、たった一度だけ のココロの緩みは一生涯の苦しみを選択することである。

一日一生だけでなく

煙草は 一本一生の苦しみ

ギャンブルは 一度一生の苦しみ

喫煙もギャンブルも、その泥沼に入りこみやすい性格と、入り込みにくい性格があり、

その個人差が相当大きい。私の性格はなんでもハマり込みやすい性格であり、特に煙草やパチンコは父親の影響があったと思うが、健康的な少々の煙草も、少々の遊び的なパチンコもできないタイプで、やるかやらないかの二者択一でしか、選べない性格である。

酒は両親とも飲めなかった影響もあり、酒はどんなに飲んでも美味しいとは感じないし、ハマり込めない種類である。

依存症になりやすいものの、その個人差は大きく、特に、生まれた時の家族環境も大きく影響しているように思える。

10数年前、子供が韓国ドラマ 「宮廷女官チャングムの誓い」を観ていたので、つい私も観てしまったら、その面白さにはまり込んでしまった。次の展開が気になってしようがないので、毎週それを観ないと気が済まなくなってしまった。

チャングムは終わりまでが長く、その鑑賞時間に自分の生活の多くが奪われてしまった。

それから韓国ドラマにはまり込んでしまったが、そのしつっこさ、日本の昔のメロドラマを思い起こすような、これでもか、これでもかと執拗に主人公を苛め抜き、そのイジメにまけずに立ち上がるというストリーが多いことに気が付いた。観終わった時は何かスッキリしない、重々しさが残る。

日本のドラマ1時間のストリーが、韓国では100時間のストリーになるようなものである。

韓国ドラマは中毒性が強く、時間も長く奪われてしまうので、もし第一回を観てしまったら、最後まで観なければ気が済まなくなり、多くの時間がそれに奪われてしまう覚悟をしなければならないとして、注意して、とにかく観ないようにしていた。

ところが、テレビで、韓国ドラマが多く放送されているので、つい第一回のドラマ ホジュン 伝説の心医をBSで観てしまったら、月から金まで毎朝1時間やっており、それを観なくては気が済まなくなった。42回になり、いったい終わるまで何日何時間捕らわれてしまうのだろうか、心配になってきた。しかも、このホジュンを観る1時間が生活の中心になってきて、まさに、韓国ドラマ依存症生活になるという警告が自分の経験から発せられた。

やはり、中毒も、依存症も

一回一生 のハマり込み生活である

早く自分に韓国ドラマを禁止しないと、自分の生活もココロも奪われてしまう。

ネットで、このホジュンのドラマの最終回まで一気に観られるか探してみたら、あった。

なんと、最終回は1話30分135話であり、BSでは1時間1話で、役者が違うだけの違いだった。

一気に、43回以降のストリーを観たら、なんと三日徹夜(仮寝数時間)してしまった。それ以外の予定はみなキャンセルしたのだった。

最終回はやはりなんかスッキリしなかった。いわば鍼灸と漢方で治す医療の英雄を描いた人生であるが、今の時代には自己犠牲する英雄は望まれていないし、現代の多くの問題解決への道も、そこにはなく、医療もゴッドハンドを期待する技重視では解けない問題も多い。

そして、やっと韓国ドラマ中毒から解放されて、もう二度と韓国の連続ドラマは観ないことを決意し、もし、どうしても見たくなったら、ネットで最終回まで一気に観られるものだけに絞ることにした。思うに、ドラマも映画のように、2時間で一完結するのが、丁度いいと思える。

 

前回に、「迷ったら初心に戻れ」というように、

依存症や中毒になったら、

初心にもどって、

一本一生、一度一生、一回一生 

油断一秒、怪我一生

という、現実を十分に把握することである。

それを前向きな生き方にするなら

今日一日の充実、一生涯の幸福

もまた、依存症から脱却できた時のご褒美であろう。

依存症からの脱却6/科学って

3月 10th, 2017

ダイエットに関する科学的見解は実にころころ変わる

最近は、ロカボ糖質制限によるダイエットが主流で、過去のカロリーダイエットは一掃された感じさえする。

科学的と言われただけで、何かそれが真実であるかのような空気感が漂う。

だが、科学的と言われた結果の歴史をみると、まったく見解が逆になったことがけっこうある。それに科学者によっても、一人一人違い、その多数決のようなものが、その時の科学的見地の主流になってくる。

科学というのは真実を探るための一つの方法・手段であり、その手段が真実ではない。真実に至る道は科学的手段だけでなく、他の手段でもたくさんある。

これは目的と手段の図からいくと、

依存症は目的と手段が取り違えなので退化

真実を探る目的は変わらないが、科学的手段を変えないと、人類は絶滅するということでもある。科学の前は宗教であった。真実に至る道を宗教的手段を変えて、科学的手段にした。だが、その科学的手段も変えていかないと、真実への道は遠のいてしまう。より真実を探る手段を発見すれば宗教的世界から科学的世界に変ったような大変革が起き、絶滅から救われ、進化へと方向転換できるように思える。

TDKのCMのジャズピアニスト上原ひとみスベシャルインタヴュー(動画6分から)

未来とは

未来とは・・今現在何をしているかによって変わるもの。何年後どうなっているかは誰にもわからないと思うのですけれど、私の場合、ピアノを弾いていたいという気持ちが強くあるので、できれば今よりももっといろいろなものを表現したいし、もっといろいろなものを弾けるようになりたいし、自分の未来に対していつも期待していたい。そのためには やっぱり今何をすべきかってことを常に考えてコツコツ頑張る

 

GENERATION

これをしたら絶対うまくいくって道はないです。なんか、それがあったら逆に知りたいというか、ただ探し当てたいという気持ち、自分がドキドキしていたい。何度も何度も同じ実験を繰り返して ちょっとずつ分量を変えたりして、なんかずっと作りたかったものが何かの偶然の一致でできたとか、ゴールを決めたいといった気持ちがあって、それでも外してしまうときも何度もあって。でもタイミングでバーと入ったとかそういうのと同じで、探し当てたいという気持ちはずーとあって、それがかなう瞬間がご褒美。自分が今やっていることはすべて自分にかえってくるということ。毎日の積み重ねが自分の財産になるし、それは毎日の小さな努力だったり、いろいろな経験だったり、そういった一つ一つが自分の血となり肉となって、自分を作っていくので。毎日出会う物事や人やそういったものすべてが、この先の自分に返ってくると思います。

努力コツコツとやること、ジャンプ台みたいなものっていうのは存在しなくて、本当に一段一段こつこつと地道に上っていくと、ときどきなんかご褒美みたいもみえるものが、目の前に広がっていて、それでまたコツコツと上るっていう。

自分がこれがやりたいっていうものが、見つけられたということっていうのは、本当にそれだけですごくラッキーなことで、やっぱそのラッキーにちゃんと感謝することというのは、その幸運を無駄遣いにしないように、ちゃんといま自分がやりたいって出会えたものに対して、ちゃんと真摯な気持ちで向き合っていくこと。そうしたら絶対10年後はもっと楽しいです。

科学も音楽も同じで、「これをしたら絶対うまくいく道はない」。

その目的に対して、その絶対的な一つの道というのはなく、たくさん道がある。

もし、手段を絶対的な一つとしてしまうと、その手段が目的にかわり、本当の目的と手段が入れ替わり、依存症に落ち込むことになる。

 

依存症からの脱却5/意識の自由

3月 9th, 2017

意識は五次元、時間空間を自由に飛び越えていける。

だが、現実は4次元で、時間空間さらに知識経験権力などに縛られている

あなたが心の中で何を考えようと誰もそれを賛否はできないが、

一度口にしたとたん、その考え方に他人は賛否してしまう。

つまり、心の中の意識はどこまでも自由であり、現実の言動はあらゆるものに縛られている。

この自由な意識(5次元)と束縛の現実(4次元)は自然な特性である。

依存症は本来自由である意識を束縛された意識だと勘違い盲信してしまう病状である。

「わかっちゃいるけどやめられない」

「食べ過ぎれば苦しくなるのはわかっちゃいるけど、もっと食べることはやめられない」

この時、本来自由である意識はどうなっているだろうか?

「(止めることは)できない」という意識で満たされている。

「できない」という束縛された意識のまま凝り固まっている。筋肉の固い凝りと同じである。

だが、次に続く言葉で、依存症から抜け出られるかどうかが決まってしまう。

「ずーと、(できない)俺さ!」

「いつかは、(できる)俺さ!」

意識が「できない=不可能」に向くか?

意識が「できる=可能」に向くか?

で、病気になるか、健康になるかが決定される

科学は事実の積み重ねである。

人の意識は時間空間また生死さえも超えて想像することができるほどなんでもでき、自由である。それは自然な事実である。物語や映画ドラマは楽しく感じられるのはそれが自由な意識で語られ、また聴衆も自由な意識があるからである。

ダイエットの神が舞い降りる!

これは「できない自分」意識が「できる自分」意識に代わる瞬間である。

依存症から脱却させる神は

「できない自分」意識から「できる自分」意識に「やる気スイッチ」を点火させる。

「やればできる」という言葉がそれを凝縮している。

 

依存症からの脱却4

3月 8th, 2017

昨日、峠道から胄山を登ってきた。山頂から岩場道へと、少し下山する時、行き止まりになり、道に迷ってしまった。

山道の案内のピンクリボンが周囲にあるのに、そこには道がない。なんとか道を探そうと急斜面を昇り降りするが、見つからない。

そこで、山頂に戻って、下山道があっているか確かめることにした。

そこに標識があったのだが・・

山頂の標識をずっと眺めていたら、道が二つしかないように見えたが、もう一つあることに気付いた。それば下山道で、行き止まりだったのは展望台への道だった。以前二度も登ったことがあるのに三度目に迷うとはいささか不思議だった。

山で迷ったら、尾根に登れとか、元の道を引き返せという鉄則は合っていたことになる。登山入口で地図があったが、山頂に三つの道があるとは気が付かなかった。それは登り道と下山道しかないという思い込みが迷わせた原因でもある。

迷い道からの脱出は依存症からの脱却に応用できる

登山の時、山頂は目的であり、そこに至る道は手段である。下山の時、我が家は目的であり、山頂からの下山道は手段である。

私は我が家への下山道を迷ったことになる。その迷いから抜け出すために、迷い道という手段をリセットして戻り、別な下山道という手段を選んでことで、無事我が家という目的に到着した。

依存症は目的と手段が取り違えなので退化

目的を変えず、手段も変えないと絶滅(遭難)となり、

目的を変えず、手段を変えると進化(無事)となる。

そして、手段を変える場合は、迷った手段をリセットするために、その出発点まで戻らないと別な手段は見つからない。それが初心に帰って見つめ直すことで開路を見出すというのだろう。

私のダイエットはここ一年で徐々にリバウンドする迷い道にいる。このリバウンドはどうやらダイエット目的は変わらないが、ダイエット手段も変えないでいるために起きていると思える。リバウンドしない手段に切り替える必要がある。

そのためには、今までのダイエット法はリセットして、初心に帰り、新たなダイエット手段を見出してみることで、その開路を見出すことができそうである。

 

依存症からの脱却3

3月 7th, 2017

数十年前に、問題解決学という方法がけっこう流行った。

有名だったのが川喜多二郎の頭文字をとったKJ法だったが、もう一つ名前は忘れたが、その方法が実にユニークだった。

ある問題があるとすると、

「それは何の為にするのか?」

答えると、また

「それは何の為にするのか?」

と、その目的をどこまでも追及していく。

そういう問いかけをしていくうちに、最初の問題は自然と解決されていくというものだ。

気になったのは最終目的はどうなるのか?

その本には書いてなかったが、今の私には答えられる。

「生きる」のように、その目的とその手段が同じ「生きる」になった時にその問いかけは終わる。

目的と手段はスポーツ競技のトーナメントで金メダルをとる姿に似ている

目的と手段を、変えたり、取り違えたりすることで、人類の進化と退化が決まってくる

依存症は目的と手段が取り違えなので退化

この「何の為に?」という目的追及は、「それは何故?」という原因究明にも応用できる

「それは何故?」を繰り返し問い、「その原因とその結果が同じ」になった時で、問いかけが終わる。「生きる(命)」のように、その原因とその結果が同じになった時が探求は終わる

「目的」→「原因」に、 「手段」→「結果」にして、深く掘り下げるトーナメント協議に似てくる。

「命」のように原因結果が同じになった時で探求が終わる

「原因と結果」が「確か」か「不確か」で、自然と依存、健康と病気になる

これらの「目的」と「手段」、「原因」と「結果」をラベルに記入して、このようなトーナメント表を作ると、問題解決のガイド図になると思える。

 

依存症からの脱却2

3月 6th, 2017

体の健康が自律神経のバランスだが

交感神経力は加齢の変化、男女差がほとんどないが、副交感神経力の急激な低下が、男は30過ぎから、女は40過ぎから起きるというデータから、

緩和の副交感神経力を意識してあげることが、実際的には重要になる

交感神経レベルは加齢による変化も男女差もないが、副交感神経だけが大きく変化する

体と同じように、心の健康は自立心にあり、その自立心は自力と他力のバランスにある。

心の場合、自他のバランスは、他力の状況によって、自力を上げるか下げるかでバランス調整するのが重要になる

心の病気で最も多く、厄介なのが依存症である。依存症は他力がほぼ100%になり、自力はわずかになった状態である。

心の健康は依存症からの脱却をどのようにするかが一番のポイントになってくる。

そのポイントは「目的」と「手段」を明確化させることである。

この目的と手段は、原因と結果、因縁(間接原因とその結果)、主幹と枝葉、重要と子細のような現象にもなってくる。それらの特徴は、

一目的には多くの手段、一原因には多くの結果、一主幹には多くの枝葉、一要には多くの子細がある。

依存症が世界的な問題になっているのが神依存症と金銭依存症である。

私の場合は数十年に及ぶ神様依存症に苦しんできたので、神様依存症を例にして、その脱却方法を考察し、現在患っている食欲依存症に応用して試してみたい。

私が初めて神様依存症になったのは高校1年生の時である。

一つの疑問「何のために生きるのか?」にひっかかり、それを追及して一年たち、はっきりと答えてくれたのが、ヨガ(ヒンズー教からきた一宗教)で、「神のため」だった。それは「神になるため」という意味になっていった。

神が目的、人が手段。神になる目的の手段が、自分の修行(瞑想・ポーズ)になり、それが自分の生きる目的になった。

ここに大きな誤信が二つある。

1.「生きる目的は神ではなく、生きるそのものが目的である」

2.「神のためは、神になるためではない」

「何のために生きるのか?」

「生きる」ことは「生きる目的」であり、「生きる手段」でもあり、目的と手段が同一のもので、すでに完結した問いと答えである

「何のために生きるのか?」という問い自身の中に答えがあり、こういう問いは「迷宮入り問題」であり、次のように言い換えなければ、正しい問いにはならない。

「私はいかに生きるべきか?」

神のような抽象的な不可思議なものでなく、具体性が必要になり、またそれは「生き方」「生き模様」になってこないと、答えにくいだけでなく、答えられない。

大人が子供に

「あなたは将来何になりたいですか?」

という問いに変換しないと、答えが出てこない。それが職業であったり、尊敬する人だったりすると、自分も他人にも分かりやすい。

「あなたは一番どんな人が好きですか?」

「あなたが尊敬する一番の人は誰ですか?」

という問いに変換して具体的な答えが出るようにすることである。

私の神様依存症は「生きる目的も手段も生きることであるのに、生きる目的を神様に、生きる手段を神になる修行してしまった」ことが始まりであった。

目的と手段には、太い幹からは太い枝が何本か出てくるように、大目的、中目的、小目的というようにあり、それぞれの目的にはたくさんの枝葉がつくように多くの手段がある。

大目的=生きる 中目的=高校卒業 小目的=期末テスト

もし、当時の私だったら、他の高校生と同じような3つの目的になっていて、神様依存症にはならなかったと思える。

 

この反省を食欲依存症に応用してみよう。

「何のために食べるの?」

「お腹が減っているから」「美味しいから」「美味しそうだから」「大好物だから」

といろいろ答えるが、

1.栄養補給 2.美味しさ 3.好き

美味しさと好きは食欲依存症へなりやすいが、栄養補給は健康へとつながってくる。

つまり、

目的が健康としたら、

大目的は健康 中目的は栄養補給 小目的は美味しさ好き関係なく腹八分で胃腸保護

と意識していけば、きっとほんの少しが本当に美味しく感じ、謙虚で礼節ある食事態度になってくるだろう。

食欲依存症の脱却は煙草や酒や宗教やギャンブルのように、それらが無くても十分楽しく生きられるが、飲食の場合は、それが無いと生きられなく、それが適度の少々であれば生きられ、多すぎれば死んでしまうというという、薬のようなものであるから、バランス感覚が必要であり、断食すれば脱却できるというものではない。

自律神経バランスのように、健康と食欲のバランスが必要な依存症脱却法である。

 

依存症からの脱却は目的と手段の確認から

3月 6th, 2017

食欲依存症からの脱却が最新の私の目的である。

そのために、身体的な健康について学ぶことが多いが、過去数十年は心の健康として、宗教依存症からの脱却が目的であった。

高校の親友は身体の健康の医者になり、私は心の健康の宗教家になり、半世紀の音信不通を経て、今「健康と自然の会」で目的を共有する。友人は身体の健康のプロ、私は心の健康のプロと言いたいところだが、プロではなく、心の病気患い50年者で、自分の心の健康だけで精一杯であって、他人の心のケアなどまったくできないし、したこともない。友人は先生で私はその生徒である。

身体は自律神経のアクセル・ブレーキの効き具合とバランスで健康にする。

心は自立心の自他の力とバランスで健康にする。

依存症は目的とその手段とを逆にした勘違いから起きる

例えば、アルコール依存症は健康目的とその酒手段が逆になり、酒が目的で、健康が手段になる。「酒を飲むのではなく、酒に飲まれる」状態である。

だから、健康が目的で、酒は手段であるという確認とその決断と実行をすればアルコール依存症から抜け出ることができる。

食欲依存症は健康が目的、食欲はその手段として、確認決断実行をすれば脱却できる。

例えば、玄米か白米か といった場合、旨さで選ぶか、健康で選ぶか の選択である。

旨さは食欲で、旨さを目的にしたら、白米になるが、旨さではなく健康目的にしたら玄米になる。旨いものは食べ過ぎ、マズイものは食べ過ぎない。食を薬とすれば、「良薬口に苦し」である。健康目的のダイエットならば玄米という選択にする。

旨いから食べるのは依存症、健康のために食べるのが健康である。

食べ過ぎは依存症、腹八分目が健康というように、常に、食欲を手段、健康を目的として何事も確認しながら、決断していくことで、その選択意識が、無意識選択になって、自然治癒すると思われる。

その他の依存症もまたそうである。

ニコチン依存症 喫煙と健康と対比させた場合、健康が目的だが、喫煙(ニコチン

摂取)はその手段とはならない。手段となるのは一服として、深呼吸またゆっくりと息を吸うことで、副交感神経を刺激することである。

健康を目的にするなら、 その手段は喫煙ではなく、深呼吸である。

アルコール依存症 健康を目的にするなら、アルコールは少々また一切飲まないで、ノンアルコール飲料・甘味料が少ない、緑茶やコーヒーになる。

ギャンブル依存症 健全な(社会に役立つ)事業が目的ならば 金儲けは手段である。

健全な社会生活が目的ならば、自他生活に支障がなくくらいの少しの遊びならば手段になる。また、健全な社会生活にまったく遊びとしてのギャンブルを手段にしなくても、旅行とか趣味とか他の遊びはたくさんある。

宗教依存症 目的が人間らしい生活で、神への信仰はその手段が健全である。宗教依存症は神を目的、人を手段とした勘違い思い込みが原因である。神話とか聖典とかはドラマや映画と同じで、本当のことではなく、想像を楽しむことで、豊かな文化生活が送れる。

いろいろな神を讃える祭りがあるが、その主役は参加者の健康で、豊かな文化生活であって、神様はそのダシ(山車)に過ぎないことを確認していく。政府か国民かといった場合、国民が目的で、政府が手段であるように、人が目的で、神が手段である。

また、神や仏を手段にしなくても、健康で豊かな文化生活目的の手段には科学、スポーツ、芸能、園芸などたくさんある。

目的が一つでも、その手段はたくさんあるのは、木の幹は一つでも、そこからでる枝葉はたくさんあるようなものである。目的と手段は主幹か枝葉かという判断でもある。