法灯明とは平和への祈りである

1月 24th, 2018

ネパールは王制から民主制に代わって、少女神(クマリ)を立てることをやめなかった。ヒンズー教・仏教・イスラム教の信仰者が共通して平和の象徴して少女神を祈りつづけている

お釈迦さんが亡くなるとき、信徒に

。。。。。。。。

自灯明・法灯明

「自らを灯明とし、法を灯明とせよ」

「この世で自らを島とし、自らを頼りとして、

他人を頼りとせず、

法を島とし、法をよりどころとして、

他のものをよりどころとせずにあれ

(中村元訳「ブッダ最後の旅)・・パーリ語の経典「大パリニッバーナ経」の現代語訳」

。。。。。。。。

「自分を頼りに」というのは「自信をもって」の意である。

問題は

「法を頼りに」という、法とは 仏法のことで、

それは悟った釈迦(仏)の言葉(教え)を頼りにとおいう意味である。

釈迦・イエス・アラー・ヒンズーの神々が直接話した言葉も、その記述もない。

つまり、神仏は言葉も文字もない存在としてまず認めなければならない。

少女神(クマリ)も、三歳の時、釈迦の血筋を引き継いだ家系と国と寺院の間で選出され、

その選出基準は泣かない少女、喜怒哀楽の表情を出さない者であり、それはいわば言葉を持たない、発しない神としての代理が務まるかどうかである。

一般に法とは日本国憲法、世界連合憲章のようなもので、はっきりとした 基本精神・信条を文字にしてものであり、各宗教の経典のようなものである。

釈迦自身は 法灯明を説くとき、

「仏から直接聞いたという教師をそのまま信じるのではなく、よくよく 他の教師に聞き、また書かれた経典を吟味して 信じる道を決めよ「

と言っている。

法灯明とはつまるところ、多くの他人の言うこと、言ったことを吟味し、学びながら、自分自身が信じられるモノを見出し、頼る自信・・自灯明・・に行きつくのである。

それは

少女神クマリを信じる人が「クマリは平和の象徴だから信じる」といっている。

平和の象徴としての仏陀・アラー神・ヒンズーの神々を信じるということで、それぞれの宗教を超えて、共に祝い、共に生活できる

それは

法灯明ということは「共に平和への祈りの意思があるかどうか」で判断せよという意味である。

その教えに「平和への灯り」が見えたら、信じても安心だが、

逆にその考えに「戦争への暗黒さ」が感じられたら、信じてはならない。

この少女神クマリも、日本の天皇(日本国民の象徴)も、平和への象徴としての法灯明に感じられるので、素晴らしい祭りであり、制度であり、法灯明であると信じることができる。

それらは科学的には馬鹿げたことかもしれない。

だが、科学的知識は自然・人間のほんの一部の知識でしか到達し得ていない。それが全能でも、絶対知でもないのだ。

白根山が噴火するなんてことは科学的専門家がまったく予想もできなかったことであるように、科学的知識だけでは、自らの命を守ることはおぼつかない。

 

自らの命を守るのは、自灯明としての自信と、法灯明としてのコミュニケーションである。

 

なんとアメリカでベイシック・インカムの社会実験成功していた時があった

1月 22nd, 2018

欲望の資本主義2018の後編

歴史家 ルドガー・ブレグマンは指摘する。

PART2 36分からの動画

ベイシックインカム社会実験は成功していたのだが・・統計ミスでご破算に

社会保障費は下がり、犯罪は減少、子供の成績は上がり、人は労働をやめなかった。

だけど ただ一つ離婚率は上昇した。50%ほど。

すると共和党など保守派は皆「ベイシック・インカムは採用しないと決めた。

女性がより独立してしまったら 男性は良い結婚生活を送れなくなる ダメだ。

こうしてベイシック・インカムはアメリカで忘れ去られることになった。

だが、わずか10年後

ある研究者が当時の統計の誤りを発見した。

離婚率は上昇してなかった。時すでに遅しだ。

偶然が絡み合った奇妙な歴史だ。

もしもアメリカがベイシック・インカムを採用していたら

影響は計り知れなかっただろう。

ーーーーーー

この統計ミス あまりにもズサンだから、権力者の陰謀なんてこともあったかもしれない。

とはいえ、

もう、資本主義を存続させるためには ベイシック・インカムは必需システムだろう。

科学は時にデータ改ざんということで ゆがめられてしまうことはどこでもあるなあ。

 

科学と金は 信用大の資本主義社会だからであろう。

 

自然は人間にとって奇跡でもあり無慈悲でもある

1月 21st, 2018

人が 自分をもって 生まれたこと自体 奇跡である。

 

その自分をもった人が死ぬこと自体は 自然だと思われる。

 

生まれることが奇跡なら、死ぬのも奇跡であるはずだ。

それなのに 死ぬ奇跡を自然と呼ぶのはどうしてなのか?

 

それは なぜそうなったのか? 原因を知っているかどうか?

それだけの事である。

 

なぜ生まれたのか? 知らないから奇跡であり。

なぜ死んだのか? 知っているから自然なのである。

 

ススキの葉(かや)で鳥皿くぉ作って遊んでみた

人類のそう大差ないチンパンジーが、ススキの葉をちぎり、重ねて、結び、鳥のような姿をした、取り皿を作り、それを水飲み場に飾り、写真を撮ったとしたら、チンパンジーはその作り方も楽しむ方も知らない故に奇跡である。

だが、人間が鳥のような取り皿をススキの葉で作り、楽しんだ行為は よくある行為と楽しみと知っているから 自然である。

 

多くの人が世界の平和に貢献できず、特別な権力者や著名人しかできないと思い込んでいる。

 

今の北朝鮮核ミサイル開発をめぐる戦争危機は

一人の無名な北朝鮮兵士が韓国に命懸けで亡命したことで、金正恩の心を動かし、韓国との合同オリンピック選手団としての参加までになり、大きく平和へと舵をとっている。

どんな無名な人であり、どんな職業の人であり、自分が命懸けで自分が望むことに挑めば、世界が動く。

 

シリア難民の幼き子が親とともに命懸けで地中海を小舟で渡り、転覆して、死んだとしても、その写真が人々にとまり、大きく世界平和へと貢献したことは間違いない事実である。

 

私がススキの葉で鳥皿を作ろうとしたのは、友人が 古代稲である真菰の葉で、ゴザを必死になって作り、それを世間に薦めようとしている姿に、影響されて、真菰の葉に近い 近所にいくらでもあるススキの葉でもできるんじゃないかと ふと散歩中に思い付いたものである。

真菰の友人が私に影響を与えているとは、また私自身も影響されているのは気づかなかったが、自分のふとした行為に 人はみな微妙に影響しあっている。

特に、その人が命懸けでそれをやっている行為には影響大であり、応援したくなる。

こうした微妙な応援の力は自然な心であるが、影響波のように拡がると 奇跡的事実を引き起こす。

 

一滴の水のカタストロフィー

 

私たち一人一人の努力行為を一滴の水に例えると、

その目的が北朝鮮の平和だったならば、それを平和のコップの容器になる。

あふれだす最後の一滴の水が時の英雄として讃えられる

多くの人の目的に向かった簡単な努力の一滴一滴がしだいに積み重なって、

平和への行動へと駆り立て、最後の一滴の努力が 時の英雄として讃えられる。

北朝鮮の平和は奇跡かもしれないが、その関係国の一国民の簡単な小さな心の行為は自然な活動である。

私が単に「こうあったらいいなあ」とブログに書くようなものでもいいのである。

もし、SNSに北朝鮮の平和へのメッセージを日本の一億人がつぶやいたら、自然にその平和は訪れるだろうことは予想できるものだ。

 

人は自分の能力の限界を思い込みで決めている。

・・・・・

まほちゃん、この問題の原因は、たった”1つ”のことだよ。
それを解決したら、全部解決するんだ

あなたのコップの水はどのくらい入っている?

・・・

自分の自信も能力も 自分で決めつけてしまったときは

あがり症の人が実力を発揮できなかったり

一度自信を失うと二度と元のパフォーマンスができなくなってしまう。

あがり症や燃え尽き症候群は自分の限界と自信を決めつけてしまう

これら自信喪失の対処法は

精神療法として働きかけやすい「認知」か「行動」に焦点を当てるのが、認知行動療法である。

精神療法として働きかけやすい「認知」か「行動」に焦点を当てるのが、認知行動療法

人類増加の曲線は生物の増減のカタストロフィーからいくと、絶滅への警告がされている

人類の人口爆発曲線はカタストロフィーとして絶滅か、急減かである。安定化への道はまだ残されている

現在の世界人口爆発状況からいくと2018年の今が正念場・性念時であろう。

日本は平和憲法のおかげか、すでに人口減少している。それは安定化か、漸減かの道に分かれているともいえよう。

2018年の今はまさに正念場だ。核戦争という絶滅へのカタストロフィーは十分ありえることである

 

自然は人類にとって良いならば奇跡であるが、

人類にとって悪いならばカタストロフィー的絶滅でもある。

 

どちらに生きるか?

一滴一滴の水である一国民が平和に対して、自分のできることを命懸けでやるかどうかにかかっている。

異常気象も 異常な犯罪・戦争も、

今までの小さな積み重ねた行為から 溜まり貯まって、突然引き起こされるカタストロフィー的現象である、

 

人類が明日も存続するか、明日絶滅するか、

その瀬戸際であることは

ここ300年に起きた世界的人口爆発と経済戦争がそれを示している。

 

どんな人間も

一人一人の能力も努力も そう違いはない。

ただ、その人が平和への意思があるか、戦争への意思があるかどうかで

人類の未来は決まってしまうことは確かなことである。

 

 

思い込みは文化として輝く

1月 19th, 2018

みんな違ってみんな善い

という見識すると、会う人ごとに

みんな 独特の思い込み をしていると 気づかされる。

他人は私の鏡となって、

私も 独特の思い込み をしていると 知らされる。

 

自分が 内容のない馬鹿げたドラマ・映画を好んで観る時間が多いのが、

自分への七不思議であった。

だが、自分も この内容のない馬鹿げた考え方(思い込み)を無意識にしていると気づかされる。

自分の無意識と有意識とはけっこう逆なことが多いのである。

そのためか、無意識と有意識の間で葛藤(ストレス)が自分の心の中で、たびたび起こる。

それは人とのコミュニケーションでも起こることで

有意識同士では争いはあまり起こらないが、そこにどちらか、また両方も無意識が入ってしまうと、言い争いや喧嘩が起こる。

 

無意識と有意識とどちらが良いかどうかは ケイス バイ ケイスで、常にどちらか一方が良くて正しいというのではない。

それは みんな違ってみんな善い という見識を応用して、

無意識と有意識 どちらも違って どちらも善い

という切り口で、臨んだ方が 平和的自己鍛錬法であり、平和的コミュニケーション技法であろう。

 

みんな違ってみんな善い という見識には、悪いという考え方(思い込み)が無い

善悪のような相対論は 一言 みんなの違い によって把握される。

それは現実的においては

自分の心でも、自他のコミュニケーションでも、一見、良い悪いの言葉の押収があるが、真に悪いモノ(人・思い込み)はなく、在るのは 真に善いモノ(人・思い込み)しかないことだ。

 

夢は想像力

 

夢は無意識の空想であり、想像は有意識の空想である。

天才は無意識の行動であり、努力才は有意識の行動である。

その夢・想像が妄想か悟りかどうかは、ほんの一部しか通用しないか、全体的に広く通用するかの内容の差であろう。いわば、群盲象を評す 状態において、真実の象にどのくらい近い広い視野に立っているかで決まってくる。

その視野は時間的な過去現在未来に通じて、どれだけ長い時代に通用する見識による想像力かというのもその範疇に入る。

 

これら空間時間においての、夢・想像されたモノが

現実・自然という制約に実験経験に試されて、5W1Hの具体的事象に構想されるで、成功失敗が生まれる。

夢・想像が現実・自然に照らしあわされて、夢・想像を再構築することを 構想力という。

この構想も、無意識・有意識的にもされるもので、その結果の成功・失敗も、それは狭い視野におけるものにおいては相対するが、広い視野においてはどちらも真の成功でしかない。

 

みんな違ってみんな善い

 

といことは、成功・失敗のような相対する内容なもの、それは生死においても、空間時間的に、広い視野を持つならば、その成功もその失敗も真に成功でしかなく、その生もその死も真に生きていることでしかない

ということである。

 

つまり、

相対的なものは狭い視野から生まれる見識であり、広い視野から生まれる見識には相対的なものは平等な違いしか感じられない。

例えば、一枚のコインの裏表を見てみよう。

 

コインの表

コインの裏

コインの表だけでも、コインの裏だけでも貨幣として通用しない。

コインの裏表あって、初めて貨幣として通用する。

得はコインの表

損はコインの裏

損得は借り貸し、勝負と同じ、同じ数の価値があり、片方だけでは価値はない

成功はコインの表

失敗はコインの裏

人生における一時的な成功も失敗も 片方だけではありえない。両者あってこそ成り立つ

生はコインの表

死はコインの裏

命の生と死も 片方だけはありえない。両者の空間的な存在、時間的な繰り返しあっての実在である。

有意識はコインの表

無意識はコインの裏

見える見えないがあるように、有意識も無意識も、両者あっての生命調整維持ができる。片方だけでは調整はできない。交感神経と副交感神経のように。

みんな違った角度でみんな美しく輝くダイヤモンド

相対的な事象だけでなく、群盲象を評すような姿も、組織の大小あれど、その構成員のそれぞれの個性がみんな違って、みんな輝くダイヤモンドのような見識が みんな違ってみんな善い というものである。

 

思い込みは文化として輝く

 

世の中に、

みなそれぞれの信念、妄想、悟り、考えなど、それらを単なる思い込みとして表現してみても、

それぞれは それぞれの個性的な生き方としてとらえることができる。

何が誤り、何が正しい、というのは狭い了見から生じる。もっと広い視野に立てば、

どんな思い込みであろうと、それが生死にかかわる重要なことであろうと、

それぞれの思い込みは古今東西の文化として、平等な価値をもった存在であろう。

 

みんなそれぞれの思い込みをして、それぞれが美しく真に生きて輝いている

 

 

平昌オリンピックは南北統一と核武力なし平和実現のチャンス

1月 18th, 2018

日本は2300万年前、中朝韓ロと共にあった

日本列島は4つの奇跡から生まれた

 


なんと、2300万年前に大陸から引きちぎられた。

日中朝韓ロは同じ故郷だったんだ。

仲良くしたいものである。

オリンピック・パラリンピック期間中に

南北統一と核武力なしのコミュニケーション平和実現のチャンス

 

今は

東日本は北アメリカプレートに乗り、

西日本はユーラシアプレートに乗っており、

そして、

フィリッピンプレートと太平洋プレートに引っ張られている。

それは

今の日本の役割が、

ユーラシア・北米・太平洋・フィリッピン諸国

とを結ぶ懸け橋になっているともいえよう。

唯一の被爆国日本が

もう核爆弾という武力では世界は平和どころか、ともに自爆する運命であり、

武力なしの無血開城のような幕末のような史実経験をもって、

世界平和への道筋をつけていく役割を担っているといえよう。

 

翌二月に、

太平洋プレートのハワイとユーラシアプレートのモンゴルに行く。

それは2300万年の日本列島の歴史を確認し、

未来への道を知るための旅になるようなきがする。

戦争は単にコミュニケーションの未熟さから生まれる。

逆にいえば、

平和は単にコミュニケーションの円熟さから築かれる。

とも言えよう。

 

日本は被爆国だけでなく、原発被災国でもある。

そして、永遠に戦争とその軍隊も放棄した平和憲法を持つ国である。

今、アメリカの北朝鮮への武力干渉は

ピョンチャンオリンピック 2/9-2/25, パラオリンピック 3/9-3/18 以降に

開戦される兆候大である。

 

だが、

平和の祭典であるオリンピック・パラリンピックにおいて、

日本がその機会に、南北統一の提案をもって、武力衝突を回避するだけでなく、

核も武力もなく、平和へのコミュニケーションと実現に貢献できるチャンスでもある。

日本は歴史的にも地理的にも 日本列島の成り立ちからでも、

武力なしの隣国の平和を実現できる力をもっている。

国連による北朝鮮への兵量攻めの効果や脱走兵の韓国亡命もあり、

今、北朝鮮は韓国合同のオリンピック・パラリンピック選手団を出そうとしている。

これも南北統一と核武力回避の平和へのコミュニケーションと実現へのまたとないチャンスでもある。

アメリカ武力関与前のオリンピック・パラリンピック期間中に

南北統一と核武力なしのコミュニケーション平和が実現できることを祈りたい。

ナマコのような省エネ人生こそ天国

1月 13th, 2018

「老い方」ナマコに学び 生物学者・本川達雄さん(69)

「硬い殻で覆われてもいないのに、なぜ他の生き物に捕食されないのか。

毒を持つナマコもいますが、食べても栄養価が低いのが大きな理由です。

ナマコは体重の6割を皮が占め、筋肉は体重比わずか7%。皮の中には極小の骨が何千万個も入っており、まさに骨と皮だけです。

さらに、ナマコは体を軟らかくしたり硬くしたりする際、「キャッチ結合組織」と呼ばれる細胞組織を使います。

これは筋肉を使って姿勢を維持する場合と比べてエネルギー消費量が100分の1で済みます。

そのため、ナマコは海底の砂に含まれるわずかな有機物を食べるだけで生きられるのです。

徹底的に省エネ化することで食べるものに困らず、食われもしない「ナマコ天国」を作り上げたのです」

 

本川達雄 東工大名誉教授 で、10年前からボランティアで、小中高の学校へ 出前授業をしている

教科書に、本川達雄氏が書かれた国語の教科書があるからだ。著者として顔出しにいくというものだ。

自作の歌も作って歌っているというので、

どんな歌かと思いきや、「手はどうして平べったいのか?」という歌だった。

それは動画の3/3で聞ける。

小学生向きの歌なので、大人向きだったら、

気楽にいこう・のんびりいこう

という歌の最後に

車はガソリンで走るものです

それを

石油のコマーシャルには悪いが

 

旅は 車もガソリンがなくても 自分の足で歩けばもっと楽しいもの

人も ナマコのように生きれば きっと天国ですよ。

 

世界に一つだけの花

の歌詞を追加して、

 

金儲けばっかりして、

忙しく生きるより

ナマコのように

省エネして

ぐ~たら ぼんくら

のほほんと 生きたらいい

 

 

自分で「できる」「できない」を決めている

1月 13th, 2018

うちの前の2mくらいの山道で、4度目の車が立ち往生した人を助けた。

行き止まりのところを方向展開をしようとしたときに、

2mしかない幅で、丁度道をふさぐ様にして困っていた。

数人で車を持ち上げればなんとか回転すると思って、人足を頼んでいたところだった。

私がその車の前と畑の畝の間が5センチほど空いていたので、

それはハンドルさばきでなんとかなると判断し、私が10回ほど、5センチの前後移動と、左右ハンドル全回転で、無事方向転換できた。

その時に、ふと思ったものだ。

過去の事故もそうだったが、

 

「みな自分でできるできないことを決めている」

 

昨夜、夢を見ていて、

夢が二進も三進もいかなくなってしまった状態に自分が立っていた。

そこで、私はそこで宣言した。

「これは夢だ。だから、夢はどのような設定・状態にも回復できる。えい!」

として、「もっとも快適な状態に・・もっとも自分が望む状態に・・えい! 奇跡を起こした」

その内容は現実的にはありえない設定であり、まるで空想ドラマのような展開であるが、夢はそれが可能であり、他人がだれも見ていないし、相手が本当に存在するわけでもないので、絵を描くようにできるものである。

その時にこう思った。

 

「人は夢で自分のストレスを溜めるか、解消するか、決めている」

 

昼間 こたつでウトウトと 正夢をみていた。

 

もし、自分が日本の首相だったら、今の北朝鮮問題をすぐに解決できるだけでなく、

南北統一することも簡単にできてしまうだろう。

 

日本の首相でなくても、その代理人でもいい、

ただし、米中ロ韓の大統領首相 携帯電話ホットラインができる状態であることが必要である。

まず、金正恩に会い、そこで、今の核ミサイル問題は、南北統一すれば解決できることを話す。

そして、

金正恩は日本の天皇のように、北朝鮮の国民の象徴としての地位・・会社では会長・・にしてもらい、

実際の政治運営は韓国政治形態に任すということを合意してもらう。

その合意ができれば、その場で、米中ロ韓の大統領とホットラインで確認をとり、

その場で、国民と全世界に、テレビ放送をすればいい。

 

これは私の昼の夢での出来事である。

 

人はできるできないを自分で決めている。

ならば、

できることを夢見、できることをすれば良い。

 

各国の問題の多くは、

「群盲象を評す」における、各盲人が各国大統領だと仮定すれば、ほぼ解決する糸口が見えてくる。

みんな違った意見、みんな正しく善い意見、

みんなその違った良い意見をコミュニケーションすれば、

真実の平和への全貌が見えてきて、それが即実現できてしまう。

 

パパラギ(白人)の文化はなんか変

1月 11th, 2018

パパラギの本の内容は本当に西サモアの酋長であるツアビが話したのかはいろいろと疑問がある。

誰が話たかは、そう問題ではなく、その中身である。

読了後、私は西サモア人なるものはどんな感性をもっているのか知りたくなり、すぐに旅だった。

だが、ツアビという人物はほとんどの人が知らず、ツアビがどこに住んでいたのかも不明だった。

旅行中、

西サモア人はさぞかし西洋批判をしているだろうと思っていたが、それはまったく逆で、西洋にあこがれ、しかも、キリスト教信者になり、その教会を中心にした生活が営まれていた。

日曜になると、みな着飾り、教会に礼拝しにいくのが、唯一の娯楽であり、そこでの、寄付や、労働奉仕を好んでやっている。

毎日夕食の前に、讃美歌を歌い、年長者と旅人から食事が与えられ、子供たちはその世話と、そうした余り物を外のキッチン小屋でつまむという生活である。

この旅が縁で、帰りのバスを逃した私を喜んで止めてくれた家の娘さんと結婚し、二人の娘を得ることができた。

どうして西サモアに行ったのか?

と聞かれるたびに、「パパラギ」に書かれた西洋批判のことを話す必要に迫られるので、それをいくらか伝えてくれたのが、世界不思議発見のパパラギを話した西サモアの酋長ツアビ紹介である。

トランプ登場で、白人至上主義が復活しだした。

人の多様性というのは、国・民族でいえば、国・民族の多様性でもある。

それぞれの文化・生活がみんな違ってみんな善いということは、

それぞれの文化に違いがあって、かつそれらは平等に価値があるということであり、

それらを比較しても、それらの優劣も上下も判断できないということである。単に違っているだけで、どちらの分明も尊重され、同等に価値がある。

もちろん、時代の変化や空間の移動により、交流が深まれば、それぞれの文化同志は、批判や賛美があって、その時代時代にあった変遷をしていくというものである。

人の文化分明も、常に不変なものではなく、他の文化とのコミュニケーションによって、変化対応して、より他にも応用されやすくなるということであろう。

何が良いの悪いのというのは、狭い了見の討論であって、広い視野にたってみると、真実がみえ、みんな善いというものになる。それぞれの文化がそれぞれ自分の文化が最高最上などと主張しあっているのは、群盲象を評すという譬えと同じ御笑い種なのである。

文化には、学問・芸術・生活と多種含まれるように、人々の健康や政治や経営もみな違ってみんな善いという多様性を認めていくと、もっと、地球生活が平和で楽しく過ごせるようになるだろう。

今の西サモアは西洋文化に対して、コンプレックスをもっているように思える。

西洋に真似る必要はなく、もっと、西サモアらしい文化生活を模索して、築いて、自信をもった生き方をしてほしいと思う。

とくに、子が親を選べるという文化は手放さないでほしいと願う。

 

 

ゴリラ便が伝えたもの

1月 11th, 2018

争いや戦争は単にコミュニケーション技術の問題にすぎないことに気が付いた。

戦争から平和への道とは お互いに理解しあうためのコミュニケーションである。

いかに、人に気持ちを伝えるか? それは単に言葉だけでは難しい。

37年前の1981年ごろに、私はゴリラの恰好をして、プレゼントを渡し、メッセージを伝えるというアイデア商売をした。

それはまさに、「お祝いの気持ち」を相手にどう伝えるか? でコミュニケーション技法の一つである。

どんな手段で、気持ちを伝えるかということも、どんな話し方で真意を伝えるかにもかかわってくる。

1.ゴリラ便001 大阪毎日放送 ワイドユー

2.ゴリラ便002 ぴったしカンカン

3.ゴリラ便003 おはよう日本 最前線

4.ゴリラ便004 面白Q

5.ゴリラ便005 FNN

結婚式の取材だった。ニュースで取り上げられるとはびっくりだ。実際の仕事はなく、当日、FNNが結婚式場で申込して、やらせてもらったというものだ。テレビの力はすごいと感じた日である。

6.ゴリラ便006 うけてます ザ・ゴリラ便

いろいろな珍商売を紹介するもの

7.ゴリラ便007 女の60分

タレントの泉アキがやってくれた。実に面白く、番組の面白さは一番だった。

8.ゴリラ便008 チャレンジャー

なんと 本場のロサンジェルスまで行ってしまった。

9.ゴリラ便009 NHKニュース

10.ゴリラ便010 アルタ前 強烈なスタッフも出てくる。

11.ゴリラ便011 便利屋の実態

悪用する者が出てきて社会問題にもなった

12.ゴリラ便012 キングコング イベント

我らの仲間がみんな出てくる。

13.ゴリラ便013 キャッチ アップ

音楽と映像と合わせたセンスある番組である。

ここで、はじめてテレビでヌード便が取り上げられた。

14.ゴリラ便014 11pm ヌード便

15.ゴリラ便015 吾輩の父母なんでもや/笹塚十号通り商店街

ゴリラは絶滅危惧種に指定されている。

ゴリラが長く人々に人気がある理由が今もなお不思議である。

パンダも人気だが、どちらも絶滅危惧種である。人が保護しないかぎり、絶滅するだろう。

ゴリラもパンダも、人が絶滅に陥れ、保護、復活させもしている。

今世界は多様性を受け入れるかどうかの選択に攻められている。

多様性は人で言えば、一人一人の個性尊重である。個性において、優劣上下の差別はない、それぞれがオンリーワンであり、ナンバーワンである。

多様性を受け入れないと、優劣上下が発生し、そこに闘争と誤解という問題が生じる。

多様性を受け入れると、平等尊重が生まれ、そこに平和と理解が実現する。

コミュニケーションはまさに多様性を受け入れから始まり、そこから理解と平和で終わり、

また、新たなコミュニケーションにより、新たな多様性が生まれ、さらなる理解と平和が広がっていき、

終わることのない 生き死にまた生きる 喜怒哀楽を伴う理解と平和が深く浸透していく。

 

みんな違ってみんな善い・・その道がきっとある

1月 11th, 2018

白人至上主義の理論は一見、「みんな違ってみんな善い」という思想だと勘違いしてしまうが、

これは 「群盲象を語る」における1人の盲人が自分の偏った主張が一番正しく、他は間違いだという主張である。

以前の思想と違うのは、それぞれの主張を認め、それぞれは喧嘩また戦争しないで、別々に暮らして、無駄な対話や交流などしなく、真実など求めなくていいものだ。

実際の白人至上主義団体の行動はどうかというと、

まさに、昔のきさくな田舎の親父さんという感じである。

それは

「みんな違ってみんな悪い」という性悪説である。

今、どう考えても、

この日本が北朝鮮とアメリカの武力戦争に巻き込まれてしまうという危険があるというのに

ほとんど そういう話題がないというのが不思議でならない。

平和を論じることが まるで反社会的な運動みたいな雰囲気である。

米国の国民意識調査で、75%が北朝鮮と戦争になるというのに 日本の平和ボケはかなりのものである。

昨年の11月におきた 朝鮮と韓国の国境で、北朝鮮兵が韓国に命懸けで亡命したことは

今年の北朝鮮がどうなるかを占う面で大きい。

どうあがいても、今の北朝鮮は崩壊へと向かっている。

このまま核ミサイルを成功させて、大国と肩を並べることなどできないだろう。

それはイスラム国の運命と同じような最後のあがきをしている感じである。

今年がその終わりをつげる年になるだろう。

できたら、崩壊後、最高の隣人になれるような仲になれるかもしれない。

米中が密約をかわしたらしいというのは、情勢からみると、納得がいきそうな判断である。

もし、「みんな違ってみんな善い」という意識に立てば、

血を一滴も流さずに、平和への時代へと移行できる道ができるはずだ。

鍵は金正恩の意識変化だろう。

そのきっかけを作ればいいだけなのだが

それが、ひょっとしたら、国境警備兵の亡命かもしれない。

またはトランプであるかもしれない。

とはいえ、時代は確実に平和へと舵をとったことは確かである。

「みんな違ってみんな善い」とは みんな平等で、違いだって、どんぐりの背比べみたいなもので、

そんな些細な違いを十分楽しめるのが、平和への道だろうと思える。