時空を超えて今僕はここに居る・その2

3月 29th, 2018

フランス人のジュリアンが 43年前パリで 10日も居候させてもらった友人を探してくれた。

当時のメモには

PLOUQIN  GERARD

JUST 2463

11,PLACE D’ITTALIE PARIS 13, FRANCE

であるが、フェイスブックなどの検索では出てこない。フランス人の感覚で、名前はどうやら

G’erard Poussin

Facebookではただ一つ似ている人物の写真があったが、それだけで、基本情報は何一つない。連絡をとっても返事など期待できないだろう。

 

ジュリアンに最初に提示された印象が深く、ジェラだと思ったが、何か目のニヒルな症状が違っている。

若い時のジェラの家族は

ジェラは

次にジュリアンが提示したG’erard Poussinは

 

ここのリンクにログインして、連絡はとれそうである。

現在71歳の写真は

彼の若い時のアルバムを探してみると、

なんともなく似ているが・・??

どうも、後者の方がより近い感じで、その経歴が・・

現在:Pierre Mendes-Franceグルノーブル大学臨床心理学教授

出逢った時は私が24歳であったが、彼は私の世話は妹にまかせっぱなしで、いつもどこかに出かけていた。

何をやっているのか?と 慣れない英語で聞いたのだが・・当時 どうにも英語が話せなく、言われてもよく解らない。フランスでは英語はほとんど通じないこともあり、ジェラとの会話はほとんど ボディランゲージだった気がする。

ただ唯一、彼が日本の漫画に興味を持っていたことは記憶しており、それが当時1974年の彼の経歴と重なってくる、

「彼は(最初のアニメーション映画で頭角を穴の注意 – 1970年  大佐Zabu 1970  ワンダーランドでAlphonを 1972 –  ヒックスの夜、1977 –  テオベラ交換の世界を、1979年。彼の映画の二人は、彼が多くの新聞のために働いパリ(原-キリ、亜鉛、チャーリー毎月、エコーサバンナに移行することでカンヌ短編映画祭1971)で、漫画にありました、Le Nouvel Observateur、解放)」

また、彼と知り合ったのはフランスの西海岸のユースホステルである。当時の有名人がユースホステルに泊まり、私を自宅に招待するだろうか?

さりとて、PLOUQIN  GERARD = G’erard Poussin であると、ジュリアンの感性が合っているかもどうかも分からない。

ともあれ、

私は今43年前のフランスで、お世話になった人を探している。

それはカミユとジュリアンが帰国後、すぐに結婚式をあげる。

そこに私は招待されたのだが、今年のボルネオ学会に集中していることで、他に手が付かないし、

フランスを再度訪問するには、まず PLOUQIN  GERARD = G’erard Poussin 氏を訪ねてでないと どこにもいけないほど、その恩義を感じているからだ。

それを知ってか、ジュリアンは必死に彼の行方を捜してくれた。

それは私がこう言ったからだろう。

「カミユとジュリアンをお世話したのはたった三日だよ。僕はフランスで二週間も三食付き、部屋付き、自然動物園などの観光も、またパリ国際空港までの送りもそうだし、後、数年たって、会社の知人を彼に紹介し、お世話にもなった。

日本人の私の心より、フランス人の彼の心の方がもっともっと大きいよ」

ともあれ、

確認したくても・・それだけでも、かなりの勇気がいて ドキドキもんである。

それをするにも 数日 数週間の 心の準備がいるのである。

 

 

 

時空を超えて今僕はここに居る・その1

3月 29th, 2018

50年の時を経て

 

ここ一年半の奇跡のような毎日は

新宿高校時代の親友に50年ぶりに出逢ったことから始まった。

ひ弱なクリが柔道部に入ってきて、隣にちょこんと正座し、たった一言僕にこう問いかけた時からだ。

「何のために生きるのかなあ?」

共に65歳になったとき 残りの人生の目標を

現役便利や引退の僕は 「健康であることが最後の仕事」

現役続行の医師・病院経営者のクリは 「健康と自然」目的に活動するための徳島の古民家を買った。

その古民家の名を「知足庵」とし、

徳島大総合科学部 大橋教授が徳島大学生・留学生・地元社会人を中心に、毎月のイベントを企画リードしてる。

大橋教授は来年2019年3月で65歳の定年退職するので、知足庵の活動はあと一年で終わる。

大橋教授の目的は「海外のコミュニケーション・健康・自然」である。

大学退職後の活動のために 滋賀に知足庵の二倍も大きい古民家を買った。

僕もクリも、大橋教授の目的に引き釣られて、残りの人生目的が三つに広がっていった。

「海外交流・健康・自然」である。

そのため、一人暮らしの我が家も畑付き中古民家なので、

同じ目的のために提供すると大橋教授はえらく喜んでくれた。どうやら、そうした畑付き古民家を海外にも作りたく、そのネットワークを模索しているらしい。

大学退職後なので、それはNGO団体として 活動するのがもっともスムーズにいくと思える。

大橋大学引退最後のイベントが今年9月のボルネオにおける

持続可能な農業」をテーマとしたマレーシア(徳島大とのコラボになりそうな)学会である。

 

出逢い

 

だが、

大橋教授の目指すNGO「海外交流・健康・自然」団体には大きな問題点がある。

知足庵を買ったクリは自分が考案した「足の骨間筋療法」そして、クリ医師を助けるMさんも「笑い文字」の普及目的が中心であり、

モンゴルの旅においても、その大橋教授がめざす国際交流目的をほとんど理解できず、自分の目的遂行に忙しく、全体の調和や進行を妨げていた事実も把握できていない。

私はただ親友のクリ医師が開催する「健康と自然の会」の一人の参加者にすぎないし、そのスタッフでもない。

大橋・クリ・Mの三人で始めた知足庵の「健康と自然の会」の成立メンバー(知足庵を旅館にする人もいたが旅館業が無理と解りほとんど顔を出さない)の目的がバラバラで、自然分解寸前である。

私自身の目的はこの一年半で大きく変わり、大橋教授が目指すNGO「海外交流・健康・自然」団体設立と活動になってきているが、残念だが 足の骨間筋療法にも、笑顔文字にも ほとんど興味がわかない。

もし、その狭い目的に、大きな目的を無理やり組み込もうとすれば 狭い穴に、大きなボルトをねじ込めようとするもので、無駄な徒労で疲れ果ててしまうだろう。

それは今後私が、大橋教授が企画運営する知足庵や海外交流イベントに参加して助けることができても、

親友のクリ医師やそのスタッフM女子の活動を助けることができないばかりか、

どんな些細な手助けも二人にとっては邪魔なお節介になってしまうだろう。

どんなイベントもその参加者も、その大きな目的を共有しないと うまく進まないし、成功も、そこからの幸せも生まれない。

 

そして・・・・

 

 

諦めが肝心 DO GIVE UP は恋心に通じ

3月 28th, 2018

前回、「Never give up」という主張と反対の「諦めが肝心 Do give up」を今回は主張したい。

特に 恋愛における片思いには 必要なエッセンスである。

私の67年の人生はずっと片思いの連続であったが、特に、初恋の中学2年生の同級生への片思いは10年以上続き、相手からは一言の返事がもらえなかった。

それは青春のトラウマとなり、そうした片思いがサモア人との結婚にいたっても、離婚するという結果をもたらした。

60歳もすぎると、もうそんな片思いも まして相愛など ありえないと、残りの人生を諦めていた。

だが、突然なんと相手が19歳の女の子に片思いしたのである。

寅さんのように その恋の病にとりつかれ、会いたい気持ちをどうにも抑えきれなくなってしまった。

この長い67年間の生涯で、片思いが持続成立するには その恋が「無償の愛」であり、「相手の幸福だけを求める」ことを悟っていた。だが、実際はそんな聖人や高僧のようにはなれなく、ごくありふれた凡人のような望みをもち、「有償の愛」「相愛」を夢想し、いかに会えるかの策を捻るものである。

そうした片思いの辛さとどうにも抑えられない激情を

相手もそうした片思いを経験したのだろう、それを理解して ラインにおける長いラブレターを出し続けることだけを許してくれていた。

片思いというのは 本当の相手を恋するのではなく、自分が創造した相手を自分が求める姿にした幻想に恋することであり、自分の恋愛に恋するような、自己中心な自己愛であり、実にエゴイスティックな行為なのである。

それを十分わかり、相手に相当な迷惑をかけることが解っての片思いで、それは 病人が医者にその痛みを取り去ってもらうように嘆願する行為であり、

しかも、困ったことに、その医者は 片思いをする相手でなければならないという まるで負のスパイラルにはまり込むような また、恋愛依存症のような症状を呈する。

そうしたとき、相手からの一言の返事は特効薬のように恋の苦痛から解放してくれるが、それが一冊の長編小説をかくようなラブレターを毎日書き続けるが、一週間も一言も返事がないと、相手の異変に気が付く。

「返事はいらない」と言って書いてきたラブレターだったが、本当にこのままラブレターを書いていいものか? もう相手も迷惑の限界を超えているのではないか?

そこで、相手の本心を聞き出す妙案が浮かぶ。

このまま長文のラブレターを書いていいものか、返事がなければ「書いてはダメ」というメッセージだと理解すると、最後のラブレターを送った。

すると、すぐに 長いラブレターを読んでたみたいで、その具体的内容にもふれて

「交通違反! 本当に迷惑!」

これは 片思いの病から解放させてくる特効薬になった。

本音で 互いにぶつかりあえば、そこに新たな道が開かれると悟った瞬間でもある。

通常、それを失恋というが、それは相愛があってはじめて成立できる失恋であり、

片思いには失恋はない。

片思いの病から、解放された実にすがすがしい 晴れた気分であり、

初めて会ったときに、リセットされたような こんな人に会えたことの喜びが滲みだしてくる。

それは 自分ができることはすべてやりつくした感があり、その結果が失恋のようであっても、そこに大きな幸福感と満足感に包まれてくる。

10代の初恋の無言の片思いのトラウマから、67歳になって初めて解放された自遊を満喫できた瞬間でもある。

多くの友人の青春時代のトラウマで 死ぬまで一生涯苦しむ姿を見てきている。それは他人でも、友人でも、何もできなく、ただ見守ってあげるしかない。

私は10代はずっと精神病に苦しめられ、そして、宗教の狂信妄信にも、また 喫煙やパチンコやメタボのような依存症にもさいなまれ、そこから脱出してきた。

今回 まさか青春のトラウマだった片思い病からの脱却ができた幸福はひとこと、「生きてきてよかった。あきらめて自殺しなくてよかった」という感慨にふけっている。

==========

ここからは 私の得意分野である哲学的思考に入っていく。

仏教でいう愛とは執着のことであり、キリスト教の愛とは仏教では慈悲である。

苦(煩悩)の原因には108ある

眼・鼻・耳・舌・身・意(六根)

×苦・楽・不苦楽(三種)

×貧・不貧(二種)

×過去・現在・未来(3位)

=合計百八苦

〔出典〕大智度論
〔例〕「百八のうち五六十嫁のこと」(古川柳)

これら108の苦はみな一つの欲望に留まろうとする執着から起きる。

恋愛の対象を一人に絞り、その一人にこだわると 恋の病(苦悩)は無限に増大していく。

それは終わりなき愛欲望列車である。

一つの欲望にこだわり執着したとき、自他破壊が起きる。その末路は相手を殺して自分も自殺するか、ともに自殺するかである。それが一つのアラーの神への信愛であっても同じで、それは自爆テロとしての末路が待っている。

仏教の愛は一つの愛であり、それにこだわる執着でありそれは一神教でもあり、仏教の慈悲は多くの愛であり、それぞれの愛に特別こだわることなく、博愛することで多神教でもある。

欲望の負のスパイラルから抜け出すには 知足つまり足るを知って、小さな幸せで満足することである。

片思いも、知足のように、知愛つまり愛を知って、小さな慈悲のような愛で満足することで その苦しみから解放され、楽になる。

自分の愛や自分の欲望には「Never give up]は通用しないばかりか、逆効果、負にスパイラルの増大、憎悪増大になってくる。自他の愛や自他の欲望や夢や希望は 自然に合う限りにおいて、「Never give up]は通用する。

自分の愛や自分の欲望には「諦めが肝心 Do give up]だけが通用し、知足、小さな幸せ、小さな親切で 自然な友愛のような関係が持続する。

ーーーー

実際問題、片思いに理想的な無償の愛の適応は難しく、そういう愛する人に出会えただけで満足するような片思いは友愛となって持続する。

また、その小さな幸せと満足ができにくい場合、その自分の愛を徹底的に分析・発展させて、その極限にまでいたらせることでも、友愛という形で持続可能になる。

片思いであれ、相愛であれ、その愛は相手の幸福・相手が本当に望むことを助けたいという心である。

もし、相手が片思いする自分を嫌い遠ざけたいと願うならば、その願いをかなえることは容易なことであり、それは自分しかできないことである。そこで、相手の気持ちとの一体感が実現し、ようやく同じ気持ちで ともに生きていくことができるようになる。

それは失恋ではなく、本当に相手を愛すると必然的に相手と同じ気持ちになってくることで、なんら問題はなくなり、恋愛執着地獄からの解放がされることになる。

今回、私は後者のとことん愛しつくした時の境地を味合わせていただいた。それがまさか、初めて相手に巡り合った時の状態にリセットされたような感覚になろうとは この世の摩訶不思議な体験を そう今日も明日も、誰にも予想しないことが起きている。

この感覚は 「Never give up]を自分の持てるすべてで突入すると、そこは「諦めが肝心 Do give up]に到達するのである。

それは弁証法における正反合のような相対的感情がアウフヘーベン止揚するようなものである。

この感覚はいわば地球の磁場の男がN極、女がS極のようなものになり、

地球の真ん中では 男女(N局S局)は引き合い一体になっているが、それが離れていくと、反発するように地球の遠くの方に飛ばされるが 遠く円周を描くようにして、また引き合いつながっていく。

 

地球が回るのは時の流れである。

恋愛する男女が反対方向に歩きだすと、それはいつしか地球を一周して また巡り合い、新しい形の恋愛が始まるような関係ともいえる。

 

Never Give Up

3月 28th, 2018

モンゴルの旅のフィナーレに相応しい事件があった。

カミユとジュリアンを皷川温泉から自宅に帰ろうとするとき、

カーナビが示す道順と違うルートの西関東自動車道路に入り込んでしまい、

その出口で、一時停止せず、徐行したことで、ネズミ捕りのように暗闇に隠れていたパトカーに追いかけられ、

一時停止違反の切符を切られそうになったことだ。

昨日も カミユとジュリアンを乗せて 花影の湯から自宅に帰る同じ間違いのルートだった。

今度こそ間違えないように注意していても、やはり間違えて西関東自動車道路に入り込み、大きく行き過ぎてしまって、Uターンせざるをえなかった。

西関東自動車道路は高速道路みたいなもので、Uターンも途中下車もできないので、一度入り込むと修正がきかない。

私の方向音痴は異常に高く、それは中国・モンゴルだけでなく、地元のなんども通っている道でも迷路にはまり込むのである。

カミユとジュリアンを連れて慣れた山登りをしても、やはり山道を間違い、とにかく尾根にでようと、ジュリアンの案内で、やっと本道にもどれたが、それまで2時間くらい迷ってしまったのである。

警察が追いかけてきて、止まれという指示を出す。

だが、自分がどこで一時停止をしなかったのか?

どうにも理解できないので、そんな看板も覚えていない。

とにかく、それがどの一時停止の看板なのか? その警察に教えてもらうように、現場検証をすることになった。

 

それで 西関東自動車道路の出口で、前日 間違って、甲府からの出口だと勘違いし、右折しないよう、左右を確認しながら まったく車の通行がないことを確認 そして徐行して左折した。

その時、左右の車と風景を確認しようと集中していたため、一時停止の看板を見損なったことに気が付いた。

まして、行き止まりで、しかも夜、甲府からの右折車は頻繁に通るが、皷川温泉から万力ランプに降りる車は一時間の警察の問答に中でも、私の車一台だけだった。

どうやら、甲府から万力ランプに降りる右折車の一時停止違反を取り締まっていたようで、

私を取り締まり中も、一台の暴走族が一時停止もせず、警察をあざ笑うように、プ~カプ~カと連呼し、徐行して右折し、同じように続く車も一時停止せず徐行して通り過ぎたが、警察は私に一時停止違反の切符をとることに忙しく、私が、どうして あの二台を取り締まらないのか?と聞いても、お前が先だ!といって、その理由を延々と説明する。いわば屁理屈である。

 

私は10年無違反のゴールド免許である。人一番、安全運転には気を遣い、やっとゴールド免許を手にしたばかりである。それで、一時停止で2点のマイナスをひかれると、次のゴールド免許は取り消されてしまう。ゴールド免許だと、更新手続きが楽で、しかも保険料も安くなる。

 

しかも、フランスの友人二人が、日本の警察の取り締まりがどういうものか?観察している。もし、私がここで、一時停止違反の切符を切られたら、フランス人が日本の警察の印象を悪くみてしまう。

私は、残りの人生で、若い人たちに命のバトンをすることに集中している。フランス人である若い20代のカミユとジュリアンに対しても、これまでの67年間で得た最も大切な精神

「Never Give Up」そして、

「いかに社会を健全に変えるか?」

「いかに世界を 平和・自然・健康 へと向かわしめるか?」

「世界や社会に対して 自分ができることをしていくことで世界と社会は確実に変わる!」

「Don!t win, don!t lose!  Never kill, never be killed!」

「Live true to oneself!」

を、伝えようとした。そして、それは見事に二人に伝わったのである。

警察官の上司と若い警察官の態度は好対照であり、警察の威信をかけた上から目線の上司に対して、市民目線の若い警察官であった。

まず、私は二人の警察官にこう問うた。

「なぜ 一時停止違反を取り締まるのか、その目的は何か? 警察の本当の目的は何か?」

「市民の安全」

「そうですね。市民の安全ですよね。でも、この一時停止違反を単に注意勧告を口頭ですまし、二点減点し、次のゴール後免許を取り消させるような違反切符を切るのはただの 良心的な市民に対する虐めにすぎないのではないか?

先ほどの一時停止をあざ笑う悪心的暴走族の違反を目の前で逃す。強い者には何もせす、弱い者には法律をたてに従わさせる、そんな虐めをして恥ずかしいのは思わないのか?」

若い警察官はむきになって屁理屈を延々の延べ出す。その上司は警察の威信をかけて私を従わせようとやっきになっている」

上司警官は切符を切り始めた。

「ハイ、一時停止違反切符。ここにサインして!」

「いや、しません。一時停止違反をしたことは認めますが、その取り締まりについては 市民の安全という目的にあわせて、それは単に口頭による注意勧告が妥当とあると判断するからです」

「では、サインしない理由が取り締まりに不満があるということでいいのですね」

そして、不満理由を 上司は長い長文で書き始めた。あまり長いので、繰り返すが、ばかばかしくなったので、そのまま待っているカミユとジュリアンのところに戻り、帰ろうとした。

そして、免許証の返却を要求したが、返してくれない。

「もし、そのまま車を運転すると 免許証無携帯で 捕まえますよ」

「(あきれてものが言えなかった) もう、免許証はいらないよ、君にあげるから! 免許証無携帯で捕まえるならどうぞ」

すると、上司警官は私を車に乗らせないように体で制止する。

「君に、私の自由を奪う権利はないよ。どきたまえ!」

「いや、ダメだ」

力づくで、制止しようとするので、このままいくと、それこそ、どちらかが先に暴力をふるうか その判断がせめられたので、私が平和的に降りた。

そして、最後まで上司警官の取り締まり不満理由調書を読み上げるまで我慢した。

「では それで間違いないですね」

「(内容が欠けていたが面倒くさいので)それでいいですよ」

「では ここにサインして!」

「サインはしませんよ!」

「?????」

「いいですか? 私はこの一時停止違反に対して 口頭による注意勧告が妥当であると主張しているのですよ。

それをどうして、口頭でなく、文書にして、法律を駆使して より問題を面倒にし、本来の目的である 市民の安全から遠ざかることをするのですか?

もし、警察が私の車を停めて 注意勧告をするだけですましていたら、こんなに真っ暗い夜中に、フランスの友人をまたせず、一時間もの無駄な法律問答をする必要も、また、今後、それに対して延々と裁判を続けていく作業をしなくてよいのですよ」

それで、困り果てた上司警官は携帯電話で、さらなる上司に相談をした。

すると、見逃すよう指示を受けたらしく、態度が急変した。

黙って、上司警官は私の免許証を返し、若い警察官はしきりに、私にあやまり、また 待たせていたカミユとジュリアンにも「すいません」を連呼していた。

そして、私はカミユにこういった。

「強い者、権力を持つものには戦いが必要だが、弱い者、社会に押しつぶされそうな者には戦いではなく、平和が必要だと思う」

ジュリアンは空手三段で20年続けている。日本に来たのは日本の武士道をさらに学ぶためであった。だからこそ、特に、私は日本の武士道には二つの道があり、相手の命を奪う道と、相手の命を救う道がある。この両者をバランスよく習得するよう、受動整復・息が止まったときの、気合による回復術があることも教えた。

この警察とのやりとりはカミユとジュリアンにとっては強烈な印象をもったらしく、

それを絵にして、私がWINしたこと。

 

カミユには自分自身には二人の自分がいることを教えた。

True to oneself

Lie to oneself

この両者はいつも葛藤している。その葛藤で本当の自分が嘘の自分に克ことを 克己という。

 

この虐めのような警察官に対して、けして従わず、そして、「面倒くさがる嘘の自分」と戦い、「本当の自分」が勝利したことを讃えてくれ、それを絵にしてくれた。

カミユから私との思いでをプレゼントしてくれた。一生の宝物だ。

私の似顔絵の肩に、 WIN と描いてあるのは それだとカミユは笑って示してくれた。

 

やっとモンゴルの旅は終わった

3月 27th, 2018

精進湖で三人横たわるカミユ描く

カミユとジュリアンとの三日間の我が家での暮らしは

まるで夢のような幸せな、またフランス人の心と日本人の心を通わすことができた。

 

2018.3.25 精進湖にて、

 

最終日の今朝、
二人から、43年前のフランスでお世話になった友人を

ずっと探してきた。ジュリアンが名前のスペルを違えて探してもらったら、

その彼とコンタクトが可能となった奇跡。

そして、
67年の人生で初めての恋愛かもしれないという夢もただの独りよがりであることを確認できた。

この二つのたった一時間の出来事は

まさに、楽しいモンゴルの旅のフィナーレにふさわしい、別れの時と、次の旅立ちに向かう勇気と情熱をもたらした。

幸福と感謝がいりまじる 人生で最高の「ああ生きててよかった」という充実感に満たされた。

カミユから私との思いでをプレゼントしてくれた。一生の宝物だ。

カミユ&ジュリアン我が家で歌う

3月 25th, 2018

モンゴルのウランバートルのゲストハウスで知り合い

日本の私の家にきて、

私のための歌ってくれた。

私も 尺八で、リンゴの花びらを歌と朗読で応えた。

 

 

 

 

 

特に、越路吹雪のシャンソンが日本語で歌うのがいいらしい。

原曲はles passantes brassens

 

私のヤングフレンドの似顔絵をカミユは描いてくれた

七海のカミユ描く

なんとか戦争回避できそうなムード

3月 18th, 2018

パラリンピックが今日閉幕する。

そして 南北対話、米朝対話も進みだし・・

不安定ながらも いい感じだ・・・

それがたった一人の金正恩が死にたくないという気持ちで降りただけで・・

戦争から平和へと 一気に変わることができたことは まさに歴史的証明である。

 

それは日常生活でも、頑なな自己主張を取り下げるだけで、まったく違った回りの環境が変化するようなものである。

 

この頑なな自己主張、自己信念、自分が信じる思想・宗教が、やたらと他との摩擦を生み出していく。

それらの摩擦を和らげようとすると、逆に邪魔者・敵対扱いされて、よけい摩擦が大きくなってしまう。

多くの人は「触らぬ神に祟りなし」で、その神様・信念の人を無視するが、親しい者にとってはその無視もできなく、批判も、称賛もできないという ジレンマに陥る。

できるとすれば、その神様・信念の人によって、傷つけられた人を介抱したり、傷つかれる前に逃がしてあげることだろう。

あとは、その信仰、その信念、その主義が、現実・自然に合わないと、本人が自覚するまでじっと辛抱強く待つしかない、

だが、この辛抱なかなかできなくて、つい爆発してしまうと、冷たい戦争が一気に熱い戦争へと変わってしまう。

私はこの辛抱が実に難しく、

「火に油を注ぐようなことをする」「点火剤」とも言われたりする。

それを納めるときは、「自分の主張を取り下げる演技をして、誤ってしまう」「本心で ごめんなさい」と言っていないとバレたら、それは逆効果の謝りだ。

その時は、互角に意見を戦わすしかない。 その時のルールは殺しあわない、殴り合わない、冷静な心で、優しい言葉で、小声でゆっくりと話すことだろう。

そして、意見は互角にして終わるように、

「相手の意見に勝たない、負けない」というくらいが、丁度いい平和解決になり、おさまる。

「みんな違ってみんな正しい」くらいで、まとめ上げればいい。

戦争はコミュニケーション、平和はその休息くらいで 丁度いい塩梅だろう。

こういうコミュニケーションができるようになったのは

なんども宗教に入信、妄信、狂信して、そこから、なんども抜け出してきた経緯があるからだ。

妄信・狂信から抜け出せたきっかけはみな教祖の不祥事、ゴシップであり、言うことと為すことが真逆であった場合に、その教えや信心が間違っていることに気づかされたことだ。

それは 妄信、狂信、誤信に陥っている人の言葉と行為を注意深く観察するだけで、その矛盾に気が付き、それから抜け出せる。もちろん、自分の言葉と自分の行為を観察することで、自分の誤信からも抜け出せるということでもある。

ともあれ、

誤信・狂信・妄信の被害にあったら、一番癒されるのは 赤子の笑いである

 

 

持続可能な農業探検スタート

3月 17th, 2018

なんと、その学会が開かれる大学はuniversiti malaysia sabah で、ボルネオ島にあった。

ボルネオといえば、我がゴリラと同じ類人猿のオラウータンがいるところではないか!

大昔から、オラウータンに会いたかった。

その機会がやってくるとは まさに 奇跡尽くしの67歳だ。

いつもはこんな感じで考察ばかりしているけど

二人の娘の父親なんだな

持続可能な農業がテーマというが・・・・

モンゴルに行って、つくづく、農業が遊牧と合わせて考えないとうまく自然の歯車は回らないって気づかされた。

このボルネオはまさにそうだ。

 

 

日本では森、モンゴルでは草原 ブラジルでは熱帯雨林ジャングル

その自然をそのまま生かしていく 農業、遊牧、さらに、旅観光の三つセットで考えないと

これからの地球も、人類も、動植物も、持続可能な共存世界を維持できないようだ。

 

マレーシア国内の大学を含めてバングラデッシュ農業大学、そしてインドネシア大学を招待して、徳島大学とコラボして、目標の参加人数は100人というのだが・・・

なんか、真面目な持続可能な農業の研究発表がされるなら、問題はその内容なのに、参加人数ばかり目標にするのは 観光客の数を増やすような学会というイメージがわいてくる。

 

実際、近いボルネオ島 コタキナバルは観光地として、ツアーがあるところのようだ。

そのメインがオラウータンに出会い、きれいなビーチでくつろぎ、海鮮料理をたらふく食べて 余暇を楽しむようなところだ。

 

盛大な学会はどうも観光の目玉になるような旅客集めに利用されている感がある。

大体、一日で、たくさんの英文の学者の論文講義など聴けるわけはないし、まして 何を話しているのかさえもつかみがたいだろう。ただ、なにやら難しい話が発表されたというだけのパフォーマンスにしか感じない。

むしろ、メインはそうした論文ではなく、その周りの観光のような気がする。

持続可能な農業についての、いろいろな意見はわざわざ そんなボルネオの学会に行かなくても、ネットで知ることは可能である。むしろ、その方がよくわかる。

学会とは要は大学のイベント・お祭りみたいなもので、みんな集まって顔を合わせて 知り合うための機会をえるものだろう。そこから、互いに連絡しあって、はじめて、貴重な論文が生まれてくるというものだろう。

こういう、同じ目的を持つ人が集まり、その縁で、さらなる研究が深まるという、いわば、結婚相手を探すような、共同研究者をさがすということだろう。

学会 楽会 って感じで、人との出会いを楽しめばいい、

それは論文の内容主体は ズームビデオ会議なんかで、定期的にやればいい。

人と人の出会いから、しいていえば、すべての知恵と情報が飛び出すということだろう。

 

 

無償の愛とプラトニックラブは次元的に違う

3月 16th, 2018

アンネが13歳の時、3つ上の16歳のボーイフレンドがいた。

その彼がモデルになったかもしれないが、実際に付き合ったわけではない。

アンネが恋したのは仮想空想の男性であり、なんでも話ができる唯一心が許せる男性である。

アンネはユダヤ収容所で、チフスで死んでしまう。

実際に、恋した男性は一人もいなかった。

アンネの空想の男性への愛は実際にアンネの問いに答えることも、デートに誘うことも、一緒に話し、食べることもない、なんの見返りもない いわば無償の愛ともいえる。

 

半世紀前に、プラトニックラブというのが純愛の代名詞みたいにいわれていたが、それは単に性交渉がない精神的な愛のように思われ、恋愛感情がないが、セックスだけは共有するのをセックスフレンドと対比することができる。

純愛=プラトニックラブ=本当の愛

汚愛=セックスフレンド=偽の愛

というような、まるで、唯心論が正しく、唯物論が間違いのような風潮ができてきた。

 

アンネの空想の男性への愛は プラトニックかどうかの次元ではないだろう。そこに性行為のあるないはまったく関係ない世界である。

だからこそ、

アンネの空想の男性は無償の愛であって、プラトニックラブという次元を超えた愛なのである。

人間は身体と心を同時に持ち、それは完全に分けることはできないし、完全に分けて考えることもできない。それは無理やり、心身を分けて、プラトニックラブと セックスフレンドという分けたら、不自然であり、その議論さえも無意味なものである。

 

では、

無償の愛と有償の愛と完璧に分けることができるかどうか?

この問いの応えは

この世とあの世を完璧に分けることができるかどうか?

という同じ次元の問いと答えである。

 

そして、アンネの無償の愛は 愛すること自体でその報償の幸せを受け取ることができる。

その愛が空想であれ、現実的な見返りがなくても 愛する自分から 幸せの自分を得られる。

だから、アンネはどんなつらい状況であっても、その空想の男性への恋で、生きる力を得たのであろう、

けして、寂しい 悲しい人生であったとは他人は想像しても、アンネ自身は幸せを愛する空想の男性から幸せの人生を得ただろうと思える。

 

自然な無償の愛が不自然な有償の愛に代わる時

3月 16th, 2018

65歳と12歳の結婚、法的には認可される。
だが、倫理的・慣習的には犯罪・児童虐待として糾弾される。
子供の教育の機会を、子供時代の青春を奪う、社会悪がまかり通ることを非難するメッセージがされる。
一つの疑問は
どうして、65歳の老人が12歳の女の子と結婚したくなったのか?
単なる性的欲求のはけ口なのか?
65歳の男性の性的欲求は女性の閉口と同じで、勃起も射精ができなくなるので、子供は生まれない。
12歳の女の子は初潮を迎えた歳だろうが、性的知識の関心があっても、性的欲求はほとんどないだろう。
性的欲求のはけ口ではない。
じゃあなぜ、子供も生まれない、性的満足も得られないで、結婚しようと、お互いにしたのか? また女の子の両親も納得したのか?
年齢差の加藤茶と結婚した女性はお金目的だと思い込まれているが、女性の親の方が金持ちであるので、金目的ではない。
では一体なぜ結婚をしたのか?

愛はどれほどの年齢差も、また男女間も 国宗教だって超える。
それが真実ならば、
65歳と12歳の恋愛があってもおかしくない。
その純粋な恋愛を犯罪化させる原因は
それが有償の愛として、結婚、性生活、教育学問、夢を縛り上げたことに問題がある。
年齢・性・国・宗教を超えた恋愛とは「無償の愛」なのだ。それはお互いを縛りあうのではなく、お互いを自由にするのが無償の愛であり、片思いである。
無償の愛も片思いも、一見エゴで、独善的で、妄想に近いものである。
それを有償の愛として、結婚とか性生活とか経済生活に結び付けたとき、神は悪魔に変身するのである。
もし、
65歳と12歳の男女がお互いに無償の愛でつながったら、
結婚をする必要もないし、性交渉も必要ないし、教育学問を奪う必要もない、おじいちゃんと孫の楽しい会話であり、親子や友人また生活、夢に障害があったときの、相談役として、素敵な関係ができるだろう。
自然な無償の愛を 不自然な有償の愛だと勘違いすると、
愛は憎しみに、 自由は束縛に、 神は悪魔に 応援は犯罪に こうした、倒錯・勘違い・狂信と偏見による 不幸と悲惨のニュースは世界中で聞かされる。
そこで、もし、有償の愛を無償の愛に転じる手段をとったならば、
悪は善に、 戦争は平和に、 犯罪は善行に 苦しみは喜びに 変身するものである。