空想は欲望から生まれる

11月 6th, 2020

生命在るモノには

欲望があり 欲望に因って

生き死にを繰り返す

命無きモノに欲望はなく

在るがまま 為すがママに 変化していく

生命有るものの欲望は 

命無きモノのエネルギーと対照出来る

自然は生命有るものと無きモノと合わせ持つものである

人は命持つ故 自我と欲望により

空想し 求め続ける

欲望に限りがないように

命無きモノのエネルギー量は変わらず

ただその形態が変化するだけである

食欲 性欲 物欲 知欲は

自我の生存欲から生まれる故に

主観的な一部の空想的世界になり

絶対的な 自然な真実世界を観ることも 悟ることも出来ない

客観的 科学的な見方はその時代の主流な平均的見方であり 欲望から生まれる故に 一つの考え方に過ぎない

真実は求めるものであり

信じ 信じられるものでもない

信じられるモノは生命有るものの欲望と

命無きモノのエネルギーだけである

欲望もエネルギー自体には形がなく単に動力源であり

他とコミュニケーションしあって 形成され その形はまたコミュニケーションされ 変化し続ける

人が自然というときは

自分の欲望を抑え 

命無きモノのエネルギー的見方をするということだ

自然と真実は違う

自然は知ることはできても

真実は知ることは出来ない

人が自然を感じて安らぎを得られるのは

欲望をしばし休めるからである

死は自我のしばしの眠りであり

永遠の休息に感じられるものでもある

自我 魂は生命有るものの欲望を頼りに変化し続け

生まれ変わるようにも 自他の区別が無きモノのようにも 命無きモノの変態の様にも 見えてくる

こう考えていくと

この世あの世で最も大切な宝は

生きようとする意志

また 生まれ変わろうとする欲求であり

真善美を掴もうと 生き 死んでもなお掴もうとする意志であろう

幸せな死

10月 28th, 2020

70歳を過ぎると

自分の愛が独特の形 欲求になっていく

ただ愛する人の自由と幸せを誰からも知られずに

影から祈り続ける姿に変わっていく

それはあたかも

生きながら 幸せな死を迎える様な気持ちになる

自分の自由と幸せを守る方法は

自分を信じて真実の世界を求めてゆくことだ

それはそのまま愛する他人にも通じることである

愛するということは

自分の未来をその人に託す様に思える

愛は縁や絆から生まれるかもしれないが

愛は自分の未来への可能性を

大きく引き出すことでもある

死は生まれ変わりと同時に

愛する人を陰 黄泉の世界から

その自由と幸せを守る意味合いもある様だ

言い換えれば

死は他人を愛することである

幸せな死は愛する祈りの姿になってくる

 

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確かなのは何か

10月 25th, 2020

神仏も自分も幻想に過ぎない

という疑念が湧いた

多くの問題が起因するのは自分という存在である

多くの問題を根本的に解決するのは真実である

その真実を観ようとすると

どうしても自分という色眼鏡をかけなければならない

その為 真実は不確かな自分を通すので 真実を観ることは出来ない

生きているということは自分の意識があって始めて確認できる

自分の意識を消してしまうと死んでしまい

真実も観ることは出来ない

実に真実と自分は矛盾しあうのである

矛盾を解決するには実験する必要がある

つまり

自分で真実を求めて実験してゆく

死んでは出来ないから

生きて何度も何度も実験挑戦し 真実を確かめようとする

この生きる道 

真実を確かめようとする自分である事

真実に自分が一歩近づく過程こそ

唯一 安全な生き方であろう

絶対的な真実なんかあるかどうかも

分からないし 永遠に知ることは出来ないかもしれないが

真実に向かう自分にこそ

本当の喜怒哀楽という面白い感動を得ることが出来るのだろう

全部は決して悟れないけど

ほんの少しでも悟ろうとすること

それが生きていく醍醐味なのだろう

真実を全部確かめることは出来ないので

それを信じることもできない

唯一 信じて安全なのは自分だけである

他人 社会 国 国連 神仏は自分から遠くなり

不確かな要素が増えていくので 信心することは危険である

自分を信じて 真実を観ていく求めて行く

自信をもって真実へ旅立て!

これが不確実な時代を生き抜く

最も安心出来る方法だろう!

 

命に終わりなど無い

10月 24th, 2020

命に終わり無し
終わりは次の段階に
進むということ

欲望にも
知識 悟りにも
感情 心にも
終わりはなく
ただ変化するということ

畑仕事も
家の掃除片付けも
雑事も
食欲性欲物欲が尽きない様に
終わりはなし

つまり
命は続いてこその
命なのだ

自我も 魂も 霊も 神仏も
命あっての存在だ
段階と変化ある命以上の
絶対的存在にはなり得ない

絶対的に観じるのは
こだわり 信心 執着するからだ
それらは麻薬 煙草 酒 ギャンブルの様に
それなしでは生きられないと
思い違い 錯覚 幻聴幻覚妄想に過ぎない
依存症として心的病いを引き起こす

そういうこだわりは捨てにくいもの
解っちゃいるけど止められない
だが 
命の段階変化する真実を
瞑想していけば
自ずと 自然と 
そんなこだわりは消え去って行く
真実を超えるどんな力もないからだ

こだわり 信心するのは
真実だけにしたほうが無難であろう

とはいえ
問題は次から次へと吹き出して来る
何故かといえば
生きているからだ
引き起こされる問題を
一つひとつ
焦らずのんびりと
先後の段階を決めて確かに
解決してゆく
それが
生きているてえ ことだ
失敗を成功に
苦しさを楽しさに
止揚していく
生きる醍醐味であろう

間引きした小松菜と晩秋にも実がなるトマト

晩秋にも熟れるトマト

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長ネギを分化 生育区域を広げる

 

素人力

10月 21st, 2020

70歳になって

いろいろな気付きが沸き起こってきた

70年を振り返ると

どんな問題も まず自分で解決しようと試みたことが

その道の専門家にも負けない知識を得ることができたと思える、

この「まず自分でなんとかするという素人力」で次々と奇跡が起きた。

その奇跡は悟り・解決・夢実現というようなものではなく、

小さな気付きのようなものであり、独特な感性、凡人でなければできない技を得た。

これを玄人力に対して素人力と命名しよう!

三年前に、50年ぶりに尺八を吹き始めた。

15歳から始めた尺八を1年続けたが、自分の音楽才能の限界に悩み

師匠に

「音楽は才能ですか?」と聞いたら

「そりゃあそうだよ!」とあっさり言われ

子供の時から音痴だったこともあり、二度と尺八を吹くことはなくなった。

だが、50年後仕事から解放され自分の時間が持てた時

(音楽は才能ではないのではないか、好きだけで十分ではないのか?)

上手くなる必要はない

才能なんかなくていい

人に聴かせる必要もない

好きだけで十分だし

自分だけ納得させる練習だけでいい

3年毎日30分くらい続けていたら、ドレミを尺八で吹けるようになっていた

これは自分にとっては とうてい無理だと思い込んでいた奇跡力だった。

玄人には簡単なことも、素人には難題なことなのだ!

最高の玄人は生まれたときから才能を持つ神であり、

最低の素人は生まれたときから障害を持つ馬鹿である。

この差は何か?

例えば パリまで旅をするとしよう。

飛行機で半日でパリに旅するのと、歩いて70年かかってパリに旅するという差である。

どちらも、旅を楽しむのは同じである。旅の楽しみ方が違うだけである。

つまり

神と馬鹿の差は、その目的に向かって早く着くか、遅く着くかである。

そのスピードを決めるのは自分の好み、自分の決断、自分自身の自分らしさである。

人生の目的は何か?

何のために生きるのか?

人生の目的は人それぞれであるが、

共通の目的は生きるということだけである。

人生は旅とも言われるように、

人生の目的と手段は同じ旅、その旅を楽しむことである。

生き急ぐのも人生、のんびり生きるのもまた人生、

神も馬鹿も、同じ人生であり、違う人生の楽しみである。

 

感謝の言葉の「ありがとう」は「在り難し」が由来であり、

「在り難し」はそのまま「奇跡なこと」の意である。

 

どんな人もこの世に生まれる確率からすれば奇跡な人である。

どんな人生も在り難い最高の幸せを与えてくれる命の姿である。

神仏を讃え、玄人著名人を誉れることに対し、

私は馬鹿で、素人の生き方を賞賛するのを好み、選ぶ。

素人力は奇跡力であり、最高の人生の楽しみ方である。