自信を持って生きる

1.自灯明 法灯明

法灯明の法は現代では仏の教えの法ではなく実験と証明の科学であろう。

 だが、科学は確率と推論と多数意見で社会を翻弄させ、現実的に不確実である。

自灯明の自は自分の信心である。

 だが、自分を信じる心は成功によって生まれ、成功またずに生まれるものは自己暗示また他人洗脳である。

自分の成功は何度もあるというものではないし、一度も成功することもないことだってある。

はたして、どうやって自信を持って生きることができるのだろうか?

2.自信なんか必要ない

  • とにかくやってみる
  • どうなるか夢見る
  • 何度でもトライする
  • 何度やっても成功しなければ
  • 目的・夢を変えて
  • またやってみる
  • 何度でもやってみる
    この繰り返しをしながら
  • 死ぬまでトライしてみる

3、生まれ不平等・死なば平等

人は生まれながらにして、その環境と才能において不平等である。

だが、

ひとたび死んでしまえば、みな同じ土に帰ってしまい、平等である。

平等と公正をごちゃまぜにせず、

人の才能と環境を同じ立場にしての判断が公正な平等意識になる。

いわば、

生まれたときはみな上下関係のある神様だが、

死んだ時はみな上下関係のない仏様である。

4、生きるとは死ぬまでの一瞬の生き方

死に姿はみな同じ土に帰り

生き姿はみな違う個性ある命模様を輝かす

5、生きた結果でなく生きる過程に価値がある

 

動画

 

 

 

 

 

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自然な命の姿

 

1、自然な命の姿

命は生と死を併せ持っている

どちらが絶対的にまた永遠に存在することはない

命の生死の時間的差は自然界では問題にはならない。

2.自然とは

自然という文字は自ずと然り(おのずとしかり)と書く
この意味は、人間であれば、自分本来の生き方で生きていく姿をいう。
英語の自然 nature の語源はラテン語で、「もって生まれた意)を示す。
人間であれば生まれたときの才能をそのまま生かして生きるという意味もあるように見える。
自分のありのままの姿で生きるという意味が日本語と英語の語源から紐解けてくる。
自然に反する言葉は、人工的であろう。
この人工的というのは、本来あるべき姿を他人の意志をもって強制的に造り変えることである。

3.自然な努力とは

自然さとは、何の努力もしないことのようにもとらえることができる。
本来の自分の姿のままに楽に生きていくことでもある。
だが
他人や社会に、本来の自分を強制教育また意識洗脳されて変更させられてしまった場合、
自分本来の姿に取り戻すためには、努力が必要になる

 

4.自然に善悪も正邪もない

人間が定めた法や信じた内容や慣習により、善悪、敵味方 正しい間違いなどが決められる。
だが、そうした人間が定めたり、信じたりする内容は時代とともに変化すると善悪正邪敵味方も変化する
今は最も科学的観点が信じられているが、現実的に、そうした科学的知識は検証されずに、

権威ある雑誌の論文として提出された内容であり、それを権威団体が信じるかどうかで判断されている。
また、
科学的知識は狭い分野の中での確率的に高いということだけで、絶対的な知識にはなりえない。
科学もまた、確実に100%正しい知識を見出すものではないことを認めてかかる必要があろう。

それ故に、
自然な命の姿は、その時代と土地の人間の善悪。正邪 敵味方という観念にとらわれない生き方になる。

 

5.平等とは

人は長所と短所をみな持っているということである。
もし、完璧な人がいたら、人ではなく、空想の産物である神様や悪魔である。
そして、
完璧な人がいたら、国や社会は必要がないということ、
みな平等に長所短所を持つがゆえに、国と社会が成り立つということである。
なぜ、人の個性が生きる上でもっとも価値があるかということは、
人は長所短所を合わせ持つからであり、それを互いに補い、会話し、

さらにともに強く生き続けることができるからである。

 

6.本心で生きる

他人を気にすぎると社会の法律・慣習・教育・常識に振り回されて

自分らしく生きにくくなる。

それは他人も同じように自分らしく生きられない社会でもある。

自然な命の姿は自他の差は問題にもならない。

自分らしく本心で生きることが社会で認められる時、

ストレスのない自然な快適な生き方ができてくる。

 

7.悪いことなしに良いことに気付かない

どうして悪がはびこってしまうのか?
ニュースもほとんどが災害や悪事が多いのはどうしてか?
病気になって初めて健康法を思いつくことができる。
失敗は成功の元というように
反省は学習であり、生き抜く知恵の泉でもある。
悪魔なしに神は存在できないし、迷信なしに真実はつかめないともいえる。
どんな災害であれ、それをどう処理して、同じような災害に備えるか?
これが生き抜くための新しい生き方でもある。

 

8.仕事は楽しく、計算しないで

 お金がないと生きられない社会になると、どうしても、お金を得ることが中心になり、
本来のともに生きるという意識が失われてしまう。
そのため、
お金がベイシックインカムのようなシステムで、お金を得て生きる心配がないようにし
本来の、ともに楽しく生きられる意識が高まっていけば、

余計なストレスや勝敗や弱肉強食のように生きなくてもいいようになる。

 

9.雑事万歳

 部屋は何もしていないと埃とゴミに覆われ、生活必需品も散乱する。
こうした掃除整頓は雑事である
畑は何もしていないと雑草に覆いつくされ、野菜や穀物がその雑草に殺される。
その雑草の刈り取りも雑事である。
仕事において、顧客からクレームがくるのを放置しておくと、仕事そのものの運営維持も難しくなる
クレームや事故や損害もまた雑事である。

こうした雑事は、自分の心身や仕事をより健全にするための最高のチャンスであり、その対処から新しく生き直す、

新しく仕事を改善していく原動力になる。
雑事はおおいに受け入れ一つ一つ対処していくところに、真の生きがいも、真の改革も生まれてくる。

 

10.真の目的のための競争が必要

競争は真の目的である

健康・平和・自由のために行うのが健常な社会であるが、
真の目的のための競争ではなく、単に人の過剰な欲望のための競争は

さまざまの問題を引き起こす。

それらは勝敗にこだわってしまいやすく、本来の目的を見失いやすい。

 

例えば

オリンピックのより速く、より高く、より強くの金銀銅メダルの他に

ダイヤ ルビー サファイア メダルを真の目的である「卓越」、「友情」、「敬意・尊重」

に対し、勝敗抜きの各競技者やチーム また、オリンピック競技を支える裏方の者・団体に

与えたらどうかという提案でもある

 

 

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真実不悟

真実不悟

神仏を信じれば救われず、自由も自信も失う

思索旅の始まりと終わり

終始点の決定(設定)から、その行程が創造される
人の誕生と死の間が人生の姿になるように

思索は欲望の一つの知欲であり、

欲望の始まりは意識であり、終わりは意識無しである。

どんな意識を持つか?それが始まりであり、

その意識を失ったり、別な意識に換わった時が終わりである

神仏を信じる時は神仏への意識が始まりであり、

神仏を信じない時は神仏への意識の終わりである

どんな意識を持つかで 人生と社会が決まる

  • 真実を神や仏(悟り)として意識すると
    神仏の知識・法・学習に翻弄される人生が創造され
    ピラミッド型支配社会が形成されていく
    人生の始まり(運命論)と
    終わり(結果論)に人生価値が決定される

  • 真実を不可知・不悟として意識すると
    真実探求する挑戦型人生が創造され
    平等で自由な自信ある社会が形成されていく
    どう生きたか?その生涯行程に人生価値が決められる

自由は挑戦にあり

  • 世界がどこまで広いのか、どこまで深いのか
    その限界を知ることができないように、
    本当の真実を知ることもできないようである。

    限りなき自由はまたそれもないだろう。

    だが、
    世界も真実も、自由も、
    その限りをつけることで把握できるし、それが思い込みであれ、小さな事実であれ、
    小さな世界、小さな真実 小さな自由を観じ、知ることも可能である。

    小さな世界の広さ深さ 小さな真実 小さな自由が、
    無限の世界と真実と自由につながる瞬間がある。

    それは広き世界、本当の真実、無限の自由へ歩みだす挑戦する瞬間である。
    人の80年の生涯は、宇宙年にとって、存在するかどうかほどの寿命であるが、
    宇宙、命の真実、限りなく自由はそれを果敢に知ろうと挑戦することで感じられる。

    終わりなき旅と挑戦こそ、真実を知ろうして、けしてあきらめず、けしてとどまらず、
    真実へ向かい過程にこそ、意義がみいだせる。

    我々が生きた数日、数年、100年であろうと、それが真実への行程であれば、
    生きがいも、真に生きていることを実感することも可能になる。

不測の事態に備える

  • 真実不悟ということは、常に先は予測できないことが起こるということである。
    そもそも、我々一生は奇跡の確率で存在している。
    そうした事実から、常に不測の事態に備えておくことが肝要になる。
    それが幸運の場合も、最悪の場合も、ありえるので、けして先を決めつけられないし、まして先を決めつけてもそれは真実にならない。当たるも八卦当たらぬも八卦で占いの本質でもある。

    だが、
    大きな物事が起きる前には予兆・前触れとして、予測していない小さな事件が起きる。 
    また、自分には関係ないと思っていた遠い事件が自分にもやってくることもある。

    そんな小さなまさかの事態に、常日頃からどう対処するか、自分の気持ちや思考法をきちんと準備しておくことで、
    大きな不測の事態に出会ったときに、最小限の被害または被害なしに生き残れることになる。
  • 自分の人生については、他の誰も支配できないし、他に依存して任せられるものではない。
    運不運ということは重要ではない、運不運があったときの自分の対処のしかたを準備しておくことが重要だということである。

    真実不悟ということを前提に、自分の人生を整えていくと、
    小さな真実、小さな悟りが重要になる。
    不測の事態に備えることも、この小さな悟りに当たる。

まず先入観を捨てる

  • 真実不悟ということを出発点にすると
    どんな物事の判断・思考・学問のそれまでの先入観・偏見・伝統・知識を取り払って、まっさらの状態から思考し判断していくことが大事になる。

    問題解決しようとして、その分野の勉強をすることは先入観を持ってからということになり、その先入観の知識をどんなに発展応用してみても、その先入観の域から出られないものである。
    そもそも、
    今起きている問題の多くはそうした先入観・既存の知識から起こったとしても過言ではないだろう。
    そうして先入観知識から浮かび出た問題を解決するには
    まず、真っ白なキャンパスに自分の思考を描くようにして、その問題解決に挑戦していくことである。

    そうした自分の頭を空にした状態から、思考していき、既存の考え方や他人の言葉を参考またコミュニケーションしながら
    自分が納得する問題解決をしていくことが望ましい。

共に生きられる社会

  • 二人がザイルに繋がり、転落したとき、そのザイルの先が切れそうになる。
    そのとき、二人はどうするか?
    これが常に倫理問題としてのテーマとなっている。
    そのほとんどが英雄的行為を絶賛しているが・・
    下の者が自分でザイルを切って、上の者を助けるというのが、一番の英雄的犠牲心として讃えられてきている。
    二番目は、下の者が自分でザイルを切れない場合、上の者が下の者をつないでいるザイルを切る。
    これは救助の基本になっており、
    二次災害三次災害を防止するには、そうした判断が推奨されている。

    だが、実際には、はたしてザイルが二人を支えることができない程切れているのか確かめようがない。
    また、下の者が子で、上の者が親であったら、子が自分のザイルを切ることは難しく、
    親も、自分の命を救うために子の命を犠牲にすることは難しい。

    そこで、可能な判断は
    ともに生きられる方法をどこまでも挑戦し実行してみることである。
    例えば、
    二人を支えるザイルの強さが弱いと予想した場合、
    二人が持っている荷をすべて投げ落とし、軽くしてザイルが切れるのを防ぐ努力をする
    また、二人が別なザイルを持っていたなら、それをピッケルを重みにして、
    崖の上のある木などに引っ掛けて、ザイルの強さを補強する
    他に誰かいたら、その者にザイルを落としてもらいという判断だって可能である。
    最初から、ドラマのような設定を思い込んでしまうと、ともに生きられる方法を探るチャンスを失ってしまう。

    こうして、ともに生きられる社会を目指すためには、
    まず、何事も決めつけて行動しないことである。
    何事も決めつけるとは、真実を解ったと思い込むことである。
    どんな真実も不悟であるという前提として行動すると、

    ザイルが切れそうという判断
    自他との区別 二人ともでなく1人しか生きられないという思い込み
    こうあるべきだという英雄的行為や 二次災害防止の倫理観という社会的価値観

    これらが真実また正しいことかは不明であるとして、
    これから起こる一つ一つの具体的問題にたいして、
    ともに阿呆である ともに何が正しいか解らない ともに真実が悟れないということを前提に行動すると、
    人々は平等に、ともに何が正しいかコミュニケーションし、ともに真実を探っていく道が歩める。

    他人依存、お金依存、社会依存 権力依存 科学技術依存 などは、不平等から起こる病的個人の姿である。

    弱肉強食という自然と人間の姿を真実と思い込むと、その残忍な世界を容認し信じてしまう。
    真実不悟だから、ともに真実をもとめ、コミュニケーションし、自分ができることを具体的に一つ一つ挑戦していくことで、
    一歩一歩真実に近づく。
    それが人間にとって、一番の生きがいと楽しみになると思える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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タイムトラベル

時間が一直線に無限に進んでいくという常識は本当だろうか?

人は想像してタイムトラベルができる。

それは何故だろうか?

時空間を超える変数次元は
変化する意識在る命の世界

命なき物体次元は4次元まで
命ある意識次元は変数次元

  • 0次元は物体のエネルギーの世界であり、知覚されると有(存在)し、されないと無となる
  • 1次元は一方向に無限に進みつづける世界、終始点を設定すると有限となる
  • 2次元は平面の世界で、空間の一部を構成し、始点と終点は同じ点で結ばれる。
  • 3次元は立体の世界で、それらも組み合わせにより多数の形が構成される空間であり、有限の世界である
  • 4次元は1次元の時間と3次元の空間を合わせた時空間の世界であり、時間の設定によって、空間の形が変化する
  • 変数次元は時空間を超えた5次元以上であるが、それは命ある意識の世界であり、変化し続ける世界であり、かつ、有無・生死を超えた不可思議・不悟であるが、限界を設定したときに、知覚、悟りが生じる。

タイムトラベルできる意識が命の世界

  • 命なき物体における一方向に進む時間も、命ある意識において、未来過去現在をタイムトラベルできる
  • 無限に感じる過去未来の時間も、今の一瞬の時間に閉じ込め、把握できる。一瞬一日一生も知覚できる
  • 物体の形を持たないエネルギーは命の情熱、欲望、探求に当たり、身体の新陳代謝のように、古きものは消え、新しきものが生じる繰り返しが行われる
  • 新しきものは物体の変化のような予測ができない奇跡が起こり続ける姿である
  • 命あるものは、群れ社会として結ばれ、一つの種として知覚され、命全体は殺し殺され、食べ食べられるという生死を超えて繋がる命全体を一つとして把握される

生死も新陳代謝

身体の細胞が適切なサイクルで生まれ変わり、便や汗で老廃物を体外に排出する、これが新陳代謝。生まれ変わりのサイクルは、肌の細胞は28日、心臓は22日、胃腸は3~7日、骨は2年など各部位によって決まっている。

さて、自我をもつ身体の生まれ変わりは???

 

身体全体は現在日本では80歳くらいで新陳代謝して生まれ変わると考えれば、物事がすんなりと受け入れられる。

執着しやすい自我はこの80年の一生の身体のことである。


人の自我も一つの細胞とすれば、時間の差こそあれ、新陳代謝して、生まれ変わるというのが自然の理であろう。

目標は新しき自分

  • 目標は時間的には終点であり、空間的には到達点である。
    目標を設定することから、始まりと終わり、出発と終点、失敗と成功が生まれる。
  • 無限の自由などは無いと同じである。
    限りあって初めて自由が生まれ、感じられる。
    命に限りを設定すると、生死の境が生じる。死は生の終わりであり始まりでもある。
    生は死の終わりであり、始まりでもある。
  • 命の限りを一個の身体ではなく、他の生物と比べての人類とした場合、個々人の一回性の生死の限りは消え、人類としての生死の限りが生じる
  • このように、限りをつけることは物事に名前をつけることもそうである。生まれた子供に名前を付けないと他との区別が難しくなるようなものである。
  • 意識は命のエネルギー(情熱、欲望。探求など)を方向性の限りをつけて感じられるものである。
    その方向性の限りから、さまざまな限りが創られて、生死や身体、精神、物体などが感じられるようになる。
  • 目標は新しき自我誕生の出発点でもある
  • 目標は未来の自分であり、タイムトラベルして今の自分を変えられる
  • 過去の自分にタイムトラベルして、反省すると今の自分を変えられる

 

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個性と社会

個性と社会

社会が個人の集まりであるから、個人の健康・平和・自由が最も尊重される社会が健全である。

社会的権力で、個人の自由や健康な命、平和な暮らしを弾圧するならば、その社会は病的不健全である。

個性こそ神仏である

  • 数千年にわたって、社会は個々人の身体を武力で、心を神仏で統制している。

  • ここ数十年で、武力は核兵器に、宗教は科学に変り、社会は個々人を武力や神仏で統制できなくなってきている。

  • 武力は人間の意志の道具であり、神仏は個々人の心の中にあるという真実が認識されてきた。

  • 個々人を統制できる力を持っているのは個人の意志・意識であり、その意志・意識をもたらすのが、生まれながらの才能とその時の環境により形成される個性である。

  • 武器や神仏に代わって、個々人を統制する力は個性である。

真の神仏は人の意識と心に存する。

それ故に、今生きている人間の70億の数の神仏が存在する。

社会が人間の身体のように機能すると健全になる

社会を自分の心身とすれば、一細胞は個々人に当たる。

社会は個人の集まりであるゆえに、自ずと、社会は人の心身のような構造になっていく。

  • 神経は情報
  • 血液はお金
  • リンパは廃棄
  • 骨格と筋肉は伸縮構造
  • 内臓は役割機能
  • 皮膚は防御

機能に当たる。

そのため、社会の基本は人の心身にあり、問題があれば、人の心身の原点に戻って考え直すと解決への糸口が見えてくる。

武力による根本解決はできない

  • 個々人が「健康・平和・自由」を求める真実から、社会が築かれるのだから、社会的権力者が庶民の1人の「健康・平和・自由」を奪うあらゆる行為(武力・情報操作・強制など)は許されない。

  • 特に武器による殺人は社会の存続そのものを否定することであり、それが正当防衛としての殺人であってもそうである。

  • 武力による殺人は社会の根本問題解決はできないだけでなく、より病的な悲惨な問題を多くさせてしまう。

  • 社会の根本解決はそのはじめの原因にもどり、その反省と除去によってしかできない。

多数の意見より自分の良心に従おう

  • 多数決は多数の暴力であり、集団テロの危険があり、本来の民主主義に反する

  • 何が社会のおける決定が健全か? その決定が、より「健康・平和・自由」がどうかオープンに科学的に検証されることである。

自分の良心とは自他の健康・平和・自由であり、民主主義における多数決はしばしば集団暴力と弾圧になり、少数の意見は無視されたり、迫害されたりする。

そうした場合、自分の身を守るための嘘や口合わせも許される。

そうした態度も危険になる場合、「見ざる・聞かざる・言わざる」「触らぬ神に祟りなし」というようにして、黙秘権を行使することで身を守ることである。

自分の自由が許される範囲内では、自他の健康・平和・自由を最優先していくことが社会の健全化にもっとも効果があると思われる。

生きている者だけが存在する

  • 個性は生きている者だけが持ち、死んだ者に個性はなく、あるように見えるのは生きていたときの姿の思い出しである。

  • 霊魂・神仏とは「存在しないものを絶対存在」として権威者が認証し、生きている民衆を統治する道具・洗脳・学問である。

  • 死んだ者は存在しない、その霊魂も存在しない、今生きている者だけが存在し、真実を表す。

  • 存在はつねに新陳代謝のように、つねに新しい自我であり、固定した神仏よりも確かな真善美の究極の姿である。

  • 個性は生きている者の真実の姿であり、その個性に優劣も、善悪もなく、比較さえもできないものである。数字のように、個性の量を数えられるものではない。多数の横暴な民主主義は個性を抹殺した論理であり、個性に多数少数などというジャンルは存在しない。

  • 個性こそ、社会 生きとし生ける者の最高の宝であり、目標であり、原因であり、神性かつ知恵の泉である。

昔の偉大な人物を今生きている人間よりも大事にすることは本末転倒なことである。

死んだ者は今生きている者の想像でしかないからであり、真に存在するのは今生きている自他の人間である。

どんな神仏また先祖よりも、今生きている自他を大切にしていくと社会問題が解決していく。

個性はiPS細胞のように社会の機能に成っていく

  • iPS細胞(人工多能性幹細胞 induced pluripotent stem cell)、人間の皮膚や血液などの細胞に特殊な因子を導入培養し、神経・骨・筋肉・血液・臓器など様々な種類の細胞にる。

  • 個性は身体の多能性幹細胞として、分裂また増殖して、個性ある一社会のあらゆる機能に成長し、社会を支えることができる。

  • 個性は独自の姿であるが、挑戦と反省をしながら社会の歯車のように欠かせない大小の機能になって個性的社会を形成していく。

  • 個性は「愛と自由」の「足りぬものと足りるもの」「求める者と求められる者」「需要と供給」のマッチングによって、その土地、その時代にあった独自の社会を形成する。

個性は細胞のように新陳代謝し、心身のそれぞれの機能に形成されていく。

それは「自分というものがある」というよりも、自分自身を一生涯形成し続けるということであり、「自分になっていく」ものである。

過去の自分はいわば死んだ自分であり、今の自分だけが生きている自分、本当の自分であるということでもある。

個性も社会も、固定化したら、それは死んだ世界だと言っていいだろう。

自分も社会も、常に新しく生まれ変わっていくというのが真実の姿であろう。

 

 

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