真実不悟
神仏を信じれば救われず、自由も自信も失う
思索の旅の始まりと終わり
終始点の決定(設定)から、その行程が創造される
人の誕生と死の間が人生の姿になるように
思索は欲望の一つの知欲であり、
欲望の始まりは意識であり、終わりは意識無しである。
どんな意識を持つか?それが始まりであり、
その意識を失ったり、別な意識に換わった時が終わりである
神仏を信じる時は神仏への意識が始まりであり、
神仏を信じない時は神仏への意識の終わりである
どんな意識を持つかで 人生と社会が決まる
- 真実を神や仏(悟り)として意識すると
神仏の知識・法・学習に翻弄される人生が創造され
ピラミッド型支配社会が形成されていく
人生の始まり(運命論)と
終わり(結果論)に人生価値が決定される - 真実を不可知・不悟として意識すると
真実探求する挑戦型人生が創造され
平等で自由な自信ある社会が形成されていく
どう生きたか?その生涯行程に人生価値が決められる
自由は挑戦にあり
- 世界がどこまで広いのか、どこまで深いのか
その限界を知ることができないように、
本当の真実を知ることもできないようである。
限りなき自由はまたそれもないだろう。
だが、
世界も真実も、自由も、
その限りをつけることで把握できるし、それが思い込みであれ、小さな事実であれ、
小さな世界、小さな真実 小さな自由を観じ、知ることも可能である。
小さな世界の広さ深さ 小さな真実 小さな自由が、
無限の世界と真実と自由につながる瞬間がある。
それは広き世界、本当の真実、無限の自由へ歩みだす挑戦する瞬間である。
人の80年の生涯は、宇宙年にとって、存在するかどうかほどの寿命であるが、
宇宙、命の真実、限りなく自由はそれを果敢に知ろうと挑戦することで感じられる。
終わりなき旅と挑戦こそ、真実を知ろうして、けしてあきらめず、けしてとどまらず、
真実へ向かい過程にこそ、意義がみいだせる。
我々が生きた数日、数年、100年であろうと、それが真実への行程であれば、
生きがいも、真に生きていることを実感することも可能になる。
不測の事態に備える
- 真実不悟ということは、常に先は予測できないことが起こるということである。
そもそも、我々一生は奇跡の確率で存在している。
そうした事実から、常に不測の事態に備えておくことが肝要になる。
それが幸運の場合も、最悪の場合も、ありえるので、けして先を決めつけられないし、まして先を決めつけてもそれは真実にならない。当たるも八卦当たらぬも八卦で占いの本質でもある。
だが、
大きな物事が起きる前には予兆・前触れとして、予測していない小さな事件が起きる。
また、自分には関係ないと思っていた遠い事件が自分にもやってくることもある。
そんな小さなまさかの事態に、常日頃からどう対処するか、自分の気持ちや思考法をきちんと準備しておくことで、
大きな不測の事態に出会ったときに、最小限の被害または被害なしに生き残れることになる。 - 自分の人生については、他の誰も支配できないし、他に依存して任せられるものではない。
運不運ということは重要ではない、運不運があったときの自分の対処のしかたを準備しておくことが重要だということである。
真実不悟ということを前提に、自分の人生を整えていくと、
小さな真実、小さな悟りが重要になる。
不測の事態に備えることも、この小さな悟りに当たる。
まず先入観を捨てる
- 真実不悟ということを出発点にすると
どんな物事の判断・思考・学問のそれまでの先入観・偏見・伝統・知識を取り払って、まっさらの状態から思考し判断していくことが大事になる。
問題解決しようとして、その分野の勉強をすることは先入観を持ってからということになり、その先入観の知識をどんなに発展応用してみても、その先入観の域から出られないものである。
そもそも、
今起きている問題の多くはそうした先入観・既存の知識から起こったとしても過言ではないだろう。
そうして先入観知識から浮かび出た問題を解決するには
まず、真っ白なキャンパスに自分の思考を描くようにして、その問題解決に挑戦していくことである。
そうした自分の頭を空にした状態から、思考していき、既存の考え方や他人の言葉を参考またコミュニケーションしながら
自分が納得する問題解決をしていくことが望ましい。
共に生きられる社会
- 二人がザイルに繋がり、転落したとき、そのザイルの先が切れそうになる。
そのとき、二人はどうするか?
これが常に倫理問題としてのテーマとなっている。
そのほとんどが英雄的行為を絶賛しているが・・
下の者が自分でザイルを切って、上の者を助けるというのが、一番の英雄的犠牲心として讃えられてきている。
二番目は、下の者が自分でザイルを切れない場合、上の者が下の者をつないでいるザイルを切る。
これは救助の基本になっており、
二次災害三次災害を防止するには、そうした判断が推奨されている。
だが、実際には、はたしてザイルが二人を支えることができない程切れているのか確かめようがない。
また、下の者が子で、上の者が親であったら、子が自分のザイルを切ることは難しく、
親も、自分の命を救うために子の命を犠牲にすることは難しい。
そこで、可能な判断は
ともに生きられる方法をどこまでも挑戦し実行してみることである。
例えば、
二人を支えるザイルの強さが弱いと予想した場合、
二人が持っている荷をすべて投げ落とし、軽くしてザイルが切れるのを防ぐ努力をする
また、二人が別なザイルを持っていたなら、それをピッケルを重みにして、
崖の上のある木などに引っ掛けて、ザイルの強さを補強する
他に誰かいたら、その者にザイルを落としてもらいという判断だって可能である。
最初から、ドラマのような設定を思い込んでしまうと、ともに生きられる方法を探るチャンスを失ってしまう。
こうして、ともに生きられる社会を目指すためには、
まず、何事も決めつけて行動しないことである。
何事も決めつけるとは、真実を解ったと思い込むことである。
どんな真実も不悟であるという前提として行動すると、
ザイルが切れそうという判断
自他との区別 二人ともでなく1人しか生きられないという思い込み
こうあるべきだという英雄的行為や 二次災害防止の倫理観という社会的価値観
これらが真実また正しいことかは不明であるとして、
これから起こる一つ一つの具体的問題にたいして、
ともに阿呆である ともに何が正しいか解らない ともに真実が悟れないということを前提に行動すると、
人々は平等に、ともに何が正しいかコミュニケーションし、ともに真実を探っていく道が歩める。
他人依存、お金依存、社会依存 権力依存 科学技術依存 などは、不平等から起こる病的個人の姿である。
弱肉強食という自然と人間の姿を真実と思い込むと、その残忍な世界を容認し信じてしまう。
真実不悟だから、ともに真実をもとめ、コミュニケーションし、自分ができることを具体的に一つ一つ挑戦していくことで、
一歩一歩真実に近づく。
それが人間にとって、一番の生きがいと楽しみになると思える。