最近、もうないと思われた埋蔵金2.5兆円が独立行政法人「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」の利益剰余金が出てきた。それが、基礎年金の国庫負担割合を50%で維持に使われ、平成12年以降は消費税増税になる。
鉄道建設・運輸施設整備支援機構がそんなに利益が出ていたとはとても信じられない。マスコミのための、ただの数字の帳簿を合わせるだけの「言い訳」にすぎないように思える。
お金を独断で発行できるのは日銀である。最近、25兆円分印刷した。
日本の借金は国公債で約1000兆円あるが、税収よりも借金の方が多くなった現実ではその返済は不可能だろう。でも、借金が払えなかったら、個人だったら、破産宣告をすればいいように、国家も破産宣告すればいいのだが、そう言ったら、国民が仰天してしまう。
そこで、別な言い方で国民を安心させることができる。1000兆円の国債の半分を日銀に買ってもらい、残りの半分を貸し手である銀行各社に債券放棄してもらうと言えばいいのである。
各銀行は中央銀行である日銀と信用創造の関係にあるので、つじつまを合わせることができる。第一、銀行は国債の利子で食べているところがあるから、そうせざるをえなくなるだろう。
こうした借金の数字とはいったい何だろうか? それはほとんどが言い訳や「払う・払わない」というような言い合いにすぎないと思える。
例えば、AとBの文無しの二人の会話のようなものだ。
A:「Bさん、10000円貸してくれよ、利子つけて返すからさ」
B:「ああ、いいよ、10000円貸してあげるよ、来年までにちゃんと返してくれよ」
Bは日銀から、10000円、利子0.1%で借りて、Aに10000円利子10%で貸すことができる。
日銀は10000円の日銀券を印刷して、Bに渡し、それはAに渡す。
1年後、AがBに11000円返済すれば、Bは日銀に10010円返済することで、990円金儲けすることができる。
これが現実であるが、しかし、日銀が発行した日銀券は10000円しかなく、Aが利息分の1000円はどこからもってきたのだろうか? それはAB以外の人物であり、それをCDとすれば、ABの会話と同じことをCDがしたことになる。もし、世界がABCDの4人しかいなかったら、AがBに返済できたら、CはDに確実に返済できないことになる。日銀の総発行額は20000円であり、ABCDが必要なお金の総額は22000円であるからだ。その差額である2000円は幻のお金であり、約束という信用から生まれた幻想のお金である。その2000円の幻想のお金をめぐって奪い合うのが、ギャンブル経済である。
この2000円の幻のお金とは債券である。債券を売ったり買ったりするので、2000円の債券は株券にもなり、それは幻の商品となって、その人気と信用度でその値が上がり下がりする。そのため、その価値は最低0円最高は無制限の1億円以上になったりすることができる。
しかし、こうした幻の債券や株の実体は0円である。
これは、米や麦などの食料でも当てはまる。日銀が発行した20000円を20000粒の米として想像すればいい。今年の米の生産高が20000粒しかないのに、22000粒の米を取引することは不可能であるが、それができたとしたら、2000粒は来年生産されるだろう米粒のことであり、それは予測した数字であり、実体のない幻の米粒でしかない。
お金とは商品の値札であるが、その値段を決めることができるのはその商品を売ろうとする人物は自由につけられる。ただ、その値段で買う人がいるかどうかである。もし、買う人がいなかったら、その値札は0円の価値しかない。そのため、売り値ー買値=幻の金 ということになる。
お金とは数字である。そのため数学であることが必要だ。数字に実数と虚数があって始めて数学が発展することができるように、実体のあるお金と債券や株のような実体のないお金を分けて表示することが必要である。
実体のあるお金とは先日書いたように、金の重さではなく、米や麦の食料の量である。そして、実体のないお金は将来生産されるであろう米麦の量である。これがいわば借金や債券や株に当たるもので、その数は占いや予測であって、不確定な数字でしかない。
人は「パンのみで生きるにあらず」なので、幻想や空想や虚構や思いこみによっても、生きている。そのため、幻想であるお金も生きるには必要不可欠である。
では、この幻想であるお金1円の単位を何に設定したらいいだろうか?
キリストの「人はパンのみで生きるにあらず」といった裏には、パン以外に何で生きているかである。これは人間は肉体と精神(心)でできているので、肉体の象徴がパンであり、心の象徴が父なる神であるといいたかったのだろう。
つまり、「人は心でも生きている」ということなのだ。この心こそ、幻想や空想を楽しみ、人が夢を見る姿なのである。
では心とは何か? それは欲望・願望・希望・理想であり、それらの元になっているのが「自分の意志」である。人に命があるかをみるのに、意識があるかどうかであるようなものだ。但し、自分の意志というのは洗脳される場合があるので、他に洗脳されていない自分の意志というのが本当の自分の意志ということができる。
お金を発行する意志は、日銀であるが、その総裁は国会で決められ、国会の議員は国民の投票で行われる。つまり、20歳以上の国民の意志で作られるといっていい。20歳未満は洗脳されやすい意志と言えるかもしれない。
そこで、未来の米麦の生産数を決定するのは、20歳以上の国民の具体的意志の1を虚数であるお金の単位にしたらいいように思える。いわば、議員を選ぶ一票ようなものである。しかし、お金の単位の場合は、人に信託するのではなく、未来の米麦の生産量に対する意志である。
それは普天間基地をどうするかの一票に価するのが、虚数としてのお金の単位である。それは国民の声をお金の単位にすることである。
そこで、お金の実体の単位を
米麦1粒=1実円
お金の虚体の単位を
成人の具体的意志=1虚円
(1実円:1虚円を +1 : ー1 のようにするには、具体的意志の内容も米麦1粒 : 未来の米麦1粒 にすることで、米麦の生産量と未来の生産量がお金の単位の象徴的単位にすることができる)
米麦1粒=1実円
来年の米麦生産への1成年の意志=1虚円(今年と来年の生産意志が同じ場合)
とする。
そうすることで、お金の発行額は2種になり、1つは国民が生産消費する商品の量であり、2つは国民が将来必要とする商品量になることができる。