共産主義はソ連から崩壊したがまだ北朝鮮を中心にその残骸がある。中国なんかは経済だけが資本主義で政治が共産主義になっている。資本主義の親分であるアメリカも基軸通貨としてのドルはどんどん安くなって、資本主義も崩壊へと向かっている。
どちらも資本主義であり共産主義であり、自由主義でなく社会主義でもない、同じところに向かっている。それはなぜだろうか?
それは労働とお金はまったく無関係だという歴史的証明であるように思う。
大学中退する代わりに、自分なりの「労働論」という卒論を書いたことがある。その原稿は無くなってしまったが、労働「なぜ働くのか?」の三要素として、1,生活 2,社会的役割 3.人格形成 をあげて、分析した。当時、「働き過ぎの日本人」が社会問題になっており、「働く意味」が問われた世相であった。 そして、労働論のテーマは「就社ではなく就職」というものだった。
その後、就職したが、事実上は就社になり、その会社改革に破れ、結局自分で小さな便利屋をすることになり、労働論というより、経営論の方が大事になったという経緯がある。
それから数十年してまた「働くって何だ?」という疑問が出てきたのは、今のお金のシステムが幻想であることに気が付かされたからだ。長く便利屋を経営しても、どうしてもお金が儲からなかったし、どんなに人のために真面目に働いても金儲けはできなかった。一方、途方もない何億というような金をあっという間に金儲けしてしまう投資会社は単にマネーゲームして稼いだもので、まじめに働いて得たお金ではないと思えた。
そして、信用創造の原理を知って仰天し、お金とはいったい何だ?ということを追求していくと、ベーシックインカム(最低生活保障)の思想に出会った。その根本にあるのは、労働と所得を切り離すことである。
日本の国や地方が1000兆円の借金をして、さらにまた金持ちに借金して福利厚生事業をし、未来の国民の税金で返却していく道しかない現状は、どんなに国民が働いて税金を払っても、その国の借金を貸し主の金持ち資本家には返すことは不可能である。それは世界一の経済大国であるアメリカでも同じことである。第一、今の金持ちは働いて得た金ではなく、不労所得であり、金で金を得たものである。
労働とお金はまったく無関係であることを知るには・・・「もし突然今お金がすべて無くなったら、どうなるか?」という想像をすればいい。
まず食べ物が必要になる。ちょうど、天災にあったような状態である。そのときに、まず考えるのは「食べ物の所有権」である。いつもはスーパーに行けばお金で食べ物が買えるが、お金がなかったら、食べ物が手に入らないで困ることになる。
農園を持っているならば、自分の畑で食べ物をとれるが、持ってなかったら、その農園は誰のモノかとその所有権を考える。
農園も食べ物もなかったら、何を考えるだろうか? 誰か、食べ物をくれないかどうかを考えるだろうし、誰もいなかったら、誰のモノでもないような山や川海で食べ物を探すだろう。
つまり、お金がなくなったら、所有権が問題になり、そのお金がない状態が続くと、どんな所有権も無くなってくると想像できてくる。それは災害時における無償の食べ物を多くの人が援助するようになる状況だと思えばいいだろう。
これは、お金=所有権 であることを暗に示していることになる。
そこで、お金のない国とは所有権のない国ということになる。
もし、所有権がなかったら、労働とは何を意味するのだろうか?
その労働三要素である1,生活 2,社会的役割 3.人格形成 はいわば、1,生きること 2,助け合うこと 3.平和を楽しむ といいかえることもできる。
一言にまとめるならば、働くとは他人とともに楽しく暮らすことである。
所有権がなくなったため、一番になろうとか、頑張ろうとか、約束を守ろうとか、争おうとかいう気持ちが薄れてくることになる。
所有権に替わるのが、協力権、楽しみ権、衣食住の分配権、そして自由権である。
特に自由権が問題になり、自由のない社会共産主義のような国になってしまうだろう。
資本主義が自由主義と結びつき、共産主義が社会主義に結びつくようなものになる。
というのは、個人の所有権がないと、2つの道ができる。
1つは戦国時代のように、自分の所有するモノを増やそうとする。特に武力で自分が支配する領土を作ろうとする。
2つは、個人の所有が禁止され、すべてが国の所有になる。それが共産社会主義である。しかし、国とは個人の集まりであり、その肉体があるような実体はなく、国民に信託された個人か、個人所有を許さない思想の政党の独裁政権になる。
この2つの方向は歴史が証明している。
個人の所有権を認めた自由主義も、個人所有権を認めない社会主義も、発展すると、相矛盾する方向に進むということも歴史と現実が示している。
共産社会主義において、労働とは国につくすこと、奉仕することになり、それは国の独裁者をたたえ、従うことになってくる。
資本自由主義においては、金をより多く持つものが国を支配するため、労働は金持ちに従うことになってくる。国もまた、金で支配されるようになる。
個人の所有権を認めても認めなくても、働くとは他人とともに楽しく暮らすことである。
そして、働くとは所有権やお金とはまったく関係ないと言えることになる。そのため、お金や所有権については労働とはまったく切り離して、そのシステムや法律を作ることが必要になってくる。
お金のシステムは共産社会主義のような独裁政権になっても困るし、資本自由主義のような金持ち支配国になっても困る。
そこで、両者の道は「働くとは何か?」という原点に帰ることで、帰結するのである。つまり、
働くとは他人とともに楽しく暮らすことである
そして、
お金と所有権は「他人とともに楽しく暮らす」ための「道具・システム・法律」であるという意識によって、新たに築かれていく必要がある。
それをたとえれば、人がキャッチボールするときの、人とボールのような関係である。
キャッチボールする人が働くことであり、ボールがお金である。そうした関係になることがこれからの時代であろう。