結果がすべてなら、すべて無意味である

 あの世は地球
 この世は個人の意識

 であると公私の関係から発展させた。それをさらに展開してみたい。

 スポーツや経営において、「結果がすべて」という考え方がある。勝つか負けるか、契約をするか、しないか で、大きく人生の姿が違ってくる。

 しかし、人生においての結果はすべて「死」である。70億人の人生の結果はみな共通の死である。もし「結果がすべて」ならば人生のすべては死になり、すべて無意味になる。

 そのため、人生の意義とは結果ではなく、その過程にあるといえる。生きた成果ではなく、「どう生きたか?」である・

 人は生まれながらにして、けして平等ではなく、不平等である。病気や障害で生まれたり、その環境はみな違っている。しかし、人は死ぬときはどんな人であれ平等である。死ぬとは個人の意識がなくなることだから、個人個人の差もなくなるからである。

 しかも、死ぬとあの世である地球になる。土と水と空気などになって、地球を構成する元素になるが、それらの元素の違いはないので、地球の一部というより、地球自体になるといってもいいだろう。

 「死なばみな仏」とはそういう意味で、「死なばみな地球」といえることになる。

 そして、自己の意義とは人生の結果や時間ではなく、生きていたときに、何をし、どんな挑戦をし、どんなふうに生きたかであるといえるだろう。

 また、死ねば、どんな人間であれ、どんな生物であれ、みな同じ地球と一つになることは確かだ。そこに個人意識(「自分・他人・生物の差などの意識)もなくなった地球の活動だけが存在することになる。そこから、また新しい生物や人が生まれてくることになる。

 まったくの自分ではないが、また似たような自分が生まれてくるのだろう。その似たような自分もまた、「どう生きたか?」がもっとも価値あることになるのだろう。

 

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