地球と個人

 公私は正確には地球と個人になる。その関係はコインの表が自分だとすると、裏は地球(自然)ってことだ。 e中銀券は各国が発行し、その所有権を公(国)と私(個人)交互にもつことになる。これは生命の循環と同じで、あの世とこの世を行き来するようなものである。

 あの世とは実際は地球のことであり、この世とは生きている自分個人のことである。命のあるかないかは、意識があるかないかで判断することが多い。それは個人が肉体ではなく、個人意識であるということである。そして、意識(心)のない肉体は地球の範疇に入るということである。

 意識は心の中心にあるものであるが、意識だけの存在も、肉体だけの存在もあり得ないものであるから、問題なのは意識のない肉体(植物人間)と、肉体のない意識(幽霊)の存在である。この両者ははたして生きているか死んでいるかとはっきりと分けることはできないが、永遠に生死の境に存在し続けることはない。その存続期間はまわりの人間の介護によっても、変わってくるが、幽霊は、昔から言われるのは初七日、長くても、49日であろう。植物人間は医療技術と経済問題と家族の介護の判断によるが、1月から1年の寿命があるようだ。

 とはいえ、植物人間も幽霊も、1年間は見守ることが、礼節にも、また地球と個人の旅立ち期間があるように思える。それ以上こだわりすぎると、残された人のトラウマになって、正常な生存に支障をきたすように思える。

 さて、e中銀券の公私の循環を公である地球と私の個人の間で、発行と回収をした場合はこうなる。

 例えば、お米を生産する場合、

 地球は大地である田畑であり、個人は農民である。お金の発行金額は米の生産量であり、貯蓄税は再生産するための種籾量である。個人の消費量は「米の生産量ー種籾量」になる。

 現在の中銀券の場合は、

 お金の発行金額は未来を占ったお米の生産量であり、 消費税は実際に生産したお米の一部の種籾量にあたる。個人の消費量は「未来の米の生産予測量ー種籾量」になる。

 e中銀券も中銀券も未来の予測はするが、その違いは、e中銀券の場合は来年に必要な米のための種籾を予測することに対して、中銀券の場合は、来年、またその先の未来の米だけでなく、米を飼料、燃料、道具、特にゲームコインのための生産のための種籾量を予測する。

 そのため、e中銀券は必要なだけの生産を行うが、中銀券の場合は出来るだけ多くの生産をしようとする。

 しかし、今や、中銀券は人間の欲望の限界に達し、自然に、e中銀券を発行せざるをえなくなるだろうと思われる。そうしないと、地球と個人は行き来できなくなるからだ。

 奢れる者は久しからず

 どんなに人間が地球に対して、その欲望を満たそうとしても限界がくる。 食べ過ぎれば病気になり、最後は死に至る。電気をいくらでも造ろうとして、放射能廃棄物を生産し続ければ、その放射能廃棄物で、人類は絶滅するだろう。

 恐竜が突然絶滅したように、人類もその飽くなき欲望で絶滅する危険がせまっている。それを強力にうながすのが中銀券である。金で金を造るゲームに夢中になって、本来の米作りを忘れてしまう亡国政策TPP、各国の協力を忘れて、通貨売買する妄信金儲け為替政策、どれをとっても、人類種絶滅への歯止めはきかなくなっている。

 その歯止めこそ、e中銀券の発行である。必要は発明の母である。欲望は破壊の父である。人類が欲望を制する智恵をもてるかどうかが今の正念場であろう。

 

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