お金は労働では買えない

1,労働は金で買えるが、金は労働では買えない。

 私達は労働の対価として、お金をもらえるとしている。しかし、よく考えてみると、労働とお金は対等の関係ではないのだ。

  お金とは評価である。

 あるモノの値段はオークションのように、需要と供給で決まる。そのモノの値段(物価)が決まる。その需要と供給の市場物価を決める基準になるのが、全体の商品の平均物価である。

 商品は多くの人の労働で造られるが、労働は一人の個人のサービスで造られると言っていいだろう。

 一個人の労働に対して、関係者に評価されて、お金が支払われる。そのため、お金のために働くという意識があたりまえになってしまっている。

 しかし、どんなに働いても、それに見合う正当なお金がもらえるとは限らない。中にはお金のために働かない人もいる。

 だから、お金と労働は比較すらできないので、対価ではないのだ。その労働を評価できるから、お金で買えるが、お金を評価することはできないため、労働では買えないのである。

2.労働は交換も、貸し借りもできない

 労働とは他人のための行為だけでなく、その個人の行動のすべてであり、その人の人生そのものであるともいえる。

 そのため、どんなに望んでも、他人がその人の人生に代わりたくてもできないように、その労働は交換できない。交換できないのだから、まして、労働の貸し借りなんかできるはずはない。

3.債券と株券の違い

 お金は評価であるから、評価の貸し借りができないように、お金の貸し借りもできない。お金の貸し借りができないのだから、返済義務を信用することもできない。しかし、現在の世の中全体がお金の貸し借りという不正と法的洗脳がまかり通っている。
 
 その矛盾を解決したのが、債券ではなく株券の発行である。いわば、株券とはその株式会社の価格のことである。株式会社は法人でもあり、その法人の労働のことであり、その労働の評価が株価である。

 債券のように、株主に返済する義務もない、利益が出ても、それを配当するしないは自由である。

4,狂ったハカリとしての通貨

 どんな正当な株価も、不正なお金の貸借から成り立っているので、どの通貨も不正債券になり、それが正当な国の株券のようになったため、各国通貨の評価が毎日毎時上がり下がりすることになる。

 モノやサービスの評価基準が毎日毎時上がり下がりするという状況は、ちょうど、肉の重さを量るハカリが狂っていて、量るごとに、その重さが上がり下がりするようなもので、物価が決められているということである。

5,未来通貨は国民の評価で発行される

 お金も労働も貸し借りができないように、我々の未来も貸し借りができないものである。震災復興や様々な研究などはいわば未来労働であり、その未来労働への評価が投資である。 
 ところが、未来投資は国民への借金であるかのような誤解を受け、その借金を返済するための税金を、国民の労働でまかなおうとしている。

 これは、不正に不正を上塗りするくらいのつじつまを合わせる詐欺商法と同じ政策である。

 お金は国民の評価である。震災復興や研究の評価は国民が決める。その財源は資本家の持つ貸す金ではない。国民の評価がいわば国のお金の財源なのである。
 
 つまり、日本銀行は民間の銀行のために印刷発行するのではなく、国民の評価のために発行印刷するのが未来通貨である。

 それは国民一人一人の命の等しい評価がベーシックインカムならば、株式会社やNPO法人などの法人団体への国民評価のために、未来通貨を発行すべきなのである。

 人やモノの評価は一時一時変わるように、未来通貨もまた評価に対する通用期限が必要である。そうすれば未来通貨は今までの絶対権力を持つ死なない神様ではなく、寿命期間を必死に生きる人間のような血が通ったように、滞ることなく、ずっと廻るようになるだろう。

 

 

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