現代を生きるために必要なものは食料の他に電気である。この電気は再生可能な自然エネルギーであることがまた必須になってきている。
個人における自給自足は食料でも電気でも難しいが、小さな地域社会では可能である。
自由主義か社会主義かという数十年の世界の闘いで優勢なのは自由主義であるが、それは完璧に勝利したのではない。というのは、完璧な自由とは自分の自由を貫き通すことができるということだから、それは最終的は独裁的になる。完璧な社会主義という場合は、その社会を統括する最高指導者が最終的に独裁的になり、両主義は同じところを目指すことになるからだ。
簡単にいえば、自分一人で生きられる社会はなく、最高指導者のいない社会は存続できないということである。
自由主義と社会主義を融合させるには、自由主義の幅を小さな地域社会にすることで可能になる。しかも、その社会は経済的に自給自足が可能でなければ、他に従属するか、他を支配するかになり、真の自由は生まれない。
しかも、この小さな地域社会において、独裁者を生ませないためには、基本的政策においては住民全体から自由な意見が出され、その多数決で決められることが必要である。今のテレビとネット社会ではそれが可能になっている。
それが民主主義は政治家を選ぶことから始めるのではなく、民衆が直接政策を投票できる制度を造ることから始める必要があるということだ。
というのは、選挙するときに、自分が望むような意見の持ち主の立候補者も党もないという経験が常であったからだ。
自由な社会をさらに実現するためには、この小さな地域社会が他の地域社会との交流をどう発展させるかというのも重要である。科学技術が発展したおかげで、世界は小さくなり、国際的な交流なしには各国の自由は存続できない。
自給自足が自由の原則ではあるが、より多くの自由を望んだ場合はさらに大きな国との協力関係が必要になる。国際化なしには自由はありえないとも言えるので、小さな地域社会という自由社会主義とは矛盾してしまう。
この矛盾は自由の内容によると思われる。食料や電気のような経済的な自由は小さな地域社会が必要であるが、文化、政治、教育医療研究などは大きな国際化が必要であるといえるだろう。
どんな自由資本主義社会でも、最低生活保護政策は必要なものである。この最低生活保障が自給自足と同じ次元の政策であろう。というのは、最低生活保障はその地域の住民の命を守ることで、その社会全体で助け合うもっとも基本的な協力関係であり、いわば、最も重要な社会主義である。住民一人一人が自由であることが自由主義であるから、社会が一人の人間の命を奪うとしたら、そこに自由は消滅してしまうからである。
つまり、自由主義とは相手の自由を奪うことではなく、相手の自由を認めかつ、自分の自由をも認めなくては成立できないからだ。
食料も電気も、お金という経済で生産流通している。また、文化・政治・教育医療研究さえも、お金で動いている。経済と政治文化教育とは一つにすると自由さに弊害が生まれる。経済にあったお金と政治文化教育医療にあったお金と区別した方が、より自由な生産と流通かつ文化が生まれると思われる。
お金も科学技術のようなものである。それがどんな使われ方をするかで、善し悪しが生まれてくる。お金で教育を買おうとすることが犯罪になるようなものである。ならば、人は肉体と心があるように、お金も肉体を支えるお金で、心を支えるお金の二種があってこそ、自由な社会が、小さな地域社会と大きな国際社会で実現できるように思えるのである。