過保護な稲

 福岡式自然農法の失敗から、3年目にして、麦と稲にとりくんだ。麦はなんなく成功したが、稲はとにかく手間をかかり、しかも、生育させるのが難しい。

 今年も、1月から、毎月2月、3月、4月、5月と種籾を蒔き続け、先に生える雑草をとりながら、5月になった。昨年の冬に、雑草の種と草を全部燃やしたのだが、とにかく、その種を根絶することはできなかった。種籾も雑草に負けないくらいの量を蒔いて、いくらかでも生き残れるようにしたが、やはり、雑草の量が半端なく、稲よりも多く、しかも、乾燥にも強いし、稲と同じに生えても、稲よりも早く大きくなってしまうので、稲はその陰で生育がとまり枯れてしまう。

 昨年は麦を刈った7月のはじめに種籾を蒔いたので、失敗したと思って、麦栽培をやめ、稲たけの畑を用意して、4月を中心に種まきしたが、乾燥と雑草に、負けてしまったようだ。

 では、雑草をとればいいかというと、雑草だけを選別するのはむずかしく、稲も一緒にとってしまう。しかも、雑草はとっても、つぎにまた新しく雑草がはえ、稲よりも生長が早く大きくなるので、難しい。

 そのため、稲の畑作の場合、ビニールマルチで覆い、そこに穴をあけて、種を蒔くか、苗を植えるのが一番だろう。種の場合、鳥に食べられてしまうので、やはり苗を植えるのがいいようだ。

 でも、こうした手間をかけるのが、どうにも自然農法にはあわない。結局、水稲の田植えか、陸稲のビニールマルチでの畑植えかになってしまうと、いままでの伝統的方法しか稲は育てることは難しいことになる。とても、ただ種を蒔くだけの自然農法では無理である。

 それにしても、福岡式の米麦クローバーの3つの組み合わせはとても無理である。麦の中から稲が生えることはほとんどなく、クローバーが繁茂したところに、麦も稲も生えることはない。

 雑草をとらない自然農法において、稲の場合、雑草をとらないと、雑草に負けてしまう。稲と雑草とは共存できないことは確かだ。

 食育が盛んになっているこのごろ

 こうした手間のかかる稲を主食としていると、それは自分の子供を過保護に育てることと同じではないだろうか。まして、実った稲を脱穀、風選し、それをさらに機械で、殻をむき、玄米にし、さらにまた、その殻を精米器でむき、白米にする。

 玄米は栄養の完全食であるが、白米にして不完全食にして、おいしさを追求する。

 まさに、超過保護の米食文化である。

 稲だって、大昔は雑草であったはずである。それが、人があまりに手間をかけるがゆえに、人の助けなしには育たなくなってしまったのではないだろうか。

 麦は冬草であるので、他の雑草との競争がない。乾燥にも寒さにも強いので、ただばらまけば、どんな荒れ地でも、生えてくる。他の雑草よりもはるかに強く、共存さえもできるくらいである。

 日本がアフリカに奇跡のネリカ米として、無償援助しているが、そのテレビ報道をみていたとき、一人の農民が穂が実っても種なしで悲嘆にくれていた。実は、昨年雑草まじりで、育った陸稲のほとんどはこの種なしだったのである。たぶん、暑さや乾燥に負けたか、なんかの病気であったのだろうと思う。

 思うに、アフリカの乾燥した大地には稲よりも麦の方がはるかに合っていると思える。どうして、稲作ではなく麦作を無償援助しないのか不思議でならない。

麦はほとんど輸入に頼る日本であるが、休耕田でも河川敷でも、どこでも麦は雑草よりも強く生えてくるので、手間いらずであり、しかも、収穫しなければ、毎年そこに麦ははえてくる。

 思うに、これからの日本は稲にこだわるなら、麦のような強さをもった稲を改良し、麦の輸入はしないで、休耕田や畑で、麦作をすすめるのがいいだろう。

 稲作文化から麦作文化に代えていけば、もっと野性的な強い国民になるかもしれない。

 

 

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