今日一日が一生よりも大事

 「一日一生」というのは、一日を一生のように 大事に生きることではある。その場合、一日と一生とではどっちがより大事かどうかである。

 この 「一日一生」という意味からすれば、「一生」の方が「一日」よりも重要であるとしていることは確かだ。

しかし、結果よりも方法が重要であるという理念からすれば、一生の一部である「一日」の方が一生「全部」よりも大事であるということ だ。

 過去は消え去って返ってこないし、未来はどう予測しても100%当たることはない。より確実なのは「今生きている」という事実である。その今が一生のうちでぼ一日に当たるのである。

 「今に生きる」ということは、「一生」よりも「一日」を重要視することだ。

 なぜ科学がどんな宗教よりも信用されるようになったのだろうか?
それは、信仰よりも事実を大事にしたためであろう。事実は誰がみてもそれを信用せざるをえないことだからである。信仰はその人の選択によるので、信じた人同士だけの特殊社会である。

 過去は経典のようにいくらでも解釈ができ、その解釈によって、いろいろな宗派に分かれるように、はてはまったく逆の意味になってしまうことだってある。

 未来は占いのように、当たるも八卦当たらぬも八卦であり、東北震災のように「想定外」のことが次々と起こるものである。日本がチェルノブイリ事故のような福島原発事故が起こることなど誰が予想できただろうか?
それよりも、そんな事故など想像さえもできなかったというのが事実である。

 そうした歴史的事実からして、「過去も未来もあてにはならない」ということである。もっとも「当てにできる」のは「今日一日何をしたか」、「今日一日何をしようとしたか」である。

 相撲で、優勝をねらうときのインタビューで、力士がこう答えることが多い。「今日の一番一番ををしっかりとやっていきたい」と。優勝することよりも、今日の一試合を一生懸命にやることの方が大事であるという意識に切り替えることが重要だという意味でもある。

 金メダルをとった人でも、あとでどんなことをするかで、その人の評価は天と地くらい変わってしまう。受験に失敗したからといって、その人がそれから何をしたかでも、その評価は大きく変わるものである。

 株や為替で、一日数億円儲けることと、アルバイトで一日5000円儲けることと、もうけた金額の差は天と地くらいだが、その人の一日にとって、どちらが充実した喜びであったとしたら、稼ぐ金額には関係がないであろう。

 一生涯という結果を気にするな。
 今日一日という生き方を一生よりも高貴とせよ。

 

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