「結果がすべて」といったり、「結果(終わり)よければすべてよし」とかいうが、それは間違いであるような気がする。
もし、結果をその過程よりも重視したら、成功者だけが良いことになる。結果がよくなかった敗者は悪いってことになる。それはどうあがいてもおかしな論理なのである。
「平和のための戦争」はおかしいであろう。これは戦争中騙される論理である。「僕らは未来の平和のために戦っているだ」と、「どうしてこんなばかげた殺し合いをしなければならないのか」という疑問を投げかける若者を説得する論理はおかしい。
第一、恒久なる平和をはたして実現できるのだろうか? それはすべての人間が神様になるくらい難しいことなのではないか。それに実現できないことを実現しようとするチャレンジ精神は許せるとしても、そもそも仮に実現できたとしても、何の意味もないのではないか、むしろ、空しい世界が待っているのではないのか。
結果がすべてといったら、そもそも我々人間の最後の結果は死である。この死の結果をもっとも重要視したら、実に空しいことである。
我々がもっとも重要視しなければならないのは、死ではなく、生である。生とは死ぬまでの生き方である。死を結果とすれば、生はその方法である。
つまり、我々が重要視すべきは結果ではなく、その方法であるということだ。
結果がすべてではなく、「方法がすべて」なのである。
「結果なんかどうでもいい」のだ。