お金に色(意志)をつけよう

1,復興予算のお金に色をつければ悪用されない

 最近、「復興予算1.2兆円、基金化し流用 被災地外にも」というニュースが何度か報道される。
このニュースのコメンテイナーが、「お金に色をつけるわけにはいきませんので・・・」と笑ったが、もし、復興予算というお金に色を付けたら、こうした悪用はできなくなる。

 消費増税をすべて福祉に使うという目的税があるが、それも「お金に色を付けない限り難しいだろう」

 お金がなんでも使えるのがそのメリットだが、それが悪用されやすいのは逆のデメリットである。しかし、お金に色をつけると、こうした目的以外に、悪用がされにくくなる。

2,生活する金と金儲けする金と色分けしよう

 お金の貸し借りや売買やギャンブルができるお金と、お金の貸し借りも売買も、ギャンブルもできない食べ物の分配券のようなお金に色を付ければ、遊ぶ金と生活する金とを分けて使えるので、悪用もなくなる。

 お金の使い道、お金の目的ということは、お金に意志をつけるということである。お金に利息がつくというと、そのお金に金儲けという意志がつけられる。お金を貸し借りできないというと、そのお金は食べ物の分配券であるということになる。

 つまり、お金を正しい使い道にもっていくには、日銀で発行する貨幣を金儲けする金と、生活する金の二つに色分けすることが必要であるということだ。

2,知恵とは何か

 そもそも知識とか知恵とはいったい何だろうか?

 知識は物事を識別することから生まれる。良き判断も分別ということから始まる。そのお金がなんでも使えるということは味噌糞一緒にまぜてしまうということになる。体に良いものと悪いものとを識別してこそ、健康が保てる。

 お金に知恵をつけるということはお金を分別することである。我々が生きていく上で、これは生活するためのお金、それ以外は遊べるお金と分けてこそ、うまく家計をやっていける。

お金は天下の回り者であるから、もし生活する緑のお金が回ってきたら、それは生活するためだけに使うだろう。でも、もし、遊ぶピンクのお金が回ってきたら、生活に余裕にない人はそのピンクのお金を受け取りを拒否して、緑のお金を要求できるだろう。生活に余裕のある人はもっともっとピンクのお金を欲しがるだろう。

 つまり、お金を色分けすることで、我々は自分の生活要求によって、お金をコントロールできるようになり、お金に使われて、その依存症のようにはならなくなる。

 知恵とは依存症からの脱却方でもあるのだ。

3,神とお金の正体は欲望である

 すべての望みをかなえるのが「神様」である。その逆も真なりで、「神様」は「すべての望みをかなえる存在」である。よって、「神とはすべての欲望である」ともいえる。

 神社にいって、「神様どうかこの願いをかなえてください」というとき、その神は神棚をのぞいてみても、何もない空間か、ただ神様の名前が書いた木の札だったりする。チルチルミチルの幸福の青い鳥が自宅にいたように、神様は祈る人の心の願いの中にいるものである。

 つまり、「神とは欲望」なのである。神はその民族や国などで、名称づけれた神である。神はカミでも、お金の場合のカミはその名称をつけるように、印刷された「紙」(紙幣)である、

神がどんな願いを叶えるように、紙幣はどんなモノ(商品・サービス・権利・債権・通貨)でも買える。神と紙幣がかなえる信用度とすれば、あきらかに、紙幣の方が神様よりも大きいだろう。

「同情するなら金をくれ」
「約束するなら証文をくれ」

 というように信用度に大きな差があるのだ。

「お金とは神より信用度の高い欲望」である。

4,なんでも買えるお金は信用できない

 天地創造した善なる神様がどうして悪なるサタンまで創造したのだろうか? これは神を信仰した者にとっては一番首をかしげることである。

 どうして、神と悪魔が戦う必要があるのだろうか? 最初から、神様に逆らう悪魔など作らなければいいではないか、いままでの神様はよほど阿呆だったとしかいいようがないではないか。

あの魔法のランプで、「お前の願いを三つまですべてかなえよう」というときに、「では、すべての願いを叶えられる神様に私をしてください」という願いを一つするだけで、自分の願いは無限にかなえられるようになるのに、どうしてその願いをしなかったのか、アラジンは神と同じくよほどの阿呆だったとしかいいようがない。

 自分がすべての欲望を叶える神になれるというのが仏教の本場、ヒンズー教である。その極意は「神我一体(梵我一如・・・梵(宇宙を支配する原理)と我(個人を支配する原理)が同一)」である。それが仏教となり日本に伝わってくると、「即身成仏(人間がこの肉身のままで究極の悟りを開き、仏になる)」という意味になり、やはり「個人が神(仏)になれる」という悟りになる。

 つまり、阿呆な神が悟ると仏になる。でも、自分が仏になったら、どうなるか、その先を空想さえもしない。もし、自分が神や仏になったら、どんな人も神や仏になるってことは誰でもが想像できる。

それを想像できなかった仏も第二の阿呆である。みんな神や仏になったら、どんな願いを叶える存在になるのだから、願えるような卑しき人間なんか一人もいなくなる。

 つまり、神我一体も即身成仏も、無理な願望なのである。そこで、登場したのがソクラテスの「無知の知」であり、老子の「不知の知」であり、「知らざることを知れ」である。それはすべての欲望を叶えられるのは無理だから、信用するなという意味である。

 どんな願いをかなえる神も、どんなモノを買える紙幣も信用するなという意味でもある。
 
5,奪い合えば足らぬ、分け合えば余る

うばいあえば足らぬ

 もし、なんでも叶える神が一つだったら、その神をみんなが奪おうとして争うだろう。どんな悟りも一つであったら、その仏を得ようとして戦うだろう。宗教界は自分の信仰する神仏を最高とするために、常に争って和合することはありえない。

 自由市場を支えるお金も、なんでも買えるお金が一つであるから、それを損得として、奪い合うので、けして安定することも、足りることはない。

 しかし、そのお金が分け合うような道具だったら、そのお金(物価)は安定するだけなく、余るだろう。

 世界のお金が債権になれるお金として、一つであるために、それは未来永劫にわたって損得で奪い合うゲームになる。

 しかし、世界のすべての商品・サービス・権利を分け合うようなお金をもう一つ作れば、物価は安定し、損得でうばいあうこともなく、常に余るくらいになってくるだろう。その余ったものを未来に投資することだって十分できるようになるだろう。

 

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