稲と雑草を観察していくと、それぞれが共存するには数のバランス協定が必要だと思われる。
もし、稲だけを畑に生存させるというのは数の横暴ではないか。それは多数の意見が全体を決定することと同じではないか。
ヒットラーの独裁は民主政治の多数決から生まれた。今の安部政権も多数決の横暴で、地震国トルコに危険な原発を売ったり、ベトナムの原発を売るために、その最終廃棄物を日本が引き受けるというのもそうだ。
多数決は過去に戦争への突入をさせている。少数意見はけして尊重されない。これは民主主義だとは思えない。多数の民衆の独裁である。
本当の民主主義というのは多数決ですべての物事を決めるのではなく、議論するために、意見の違いを確認することだけでいいのではないか。
もちろん、最終的には多数決にならざるをえないかもしれないが、今の政治の多数決は議論しない多数決であり、議論あっての多数決ではない。多数与党の意見の押し売りにすぎない。
議論より多数決が独裁であり、多数決より議論が民主主義である。国民が議員を選ぶことが、国民の意見を出すこととは別である。議員選出は数の横暴と独裁につながり、議員選よりも、国民の意見を集めることが、民主主義の始めであろう。
脱原発の世論が圧倒的な国民の意見だったが、そうでない自民党議員が 多数選ばれたため、国民の多数の意見は無視されてしまうという矛盾がおきるからだ。
つまり、民主主義というのは国会がまず行わなくてはならないのは、国民へのアンケート実施と、その意見の割合を出すことである。その意見の一つ一つを精査議論して、党に関係なく、最終的に多数決をすることだろう。
党が意見を決めると一党独裁になり、国民が意見を決めることができれば、それが民主主義であろう。