信じるということ

信じるということは期待する、また支持するということではないだろうか!

「信」は、人の言葉と書くように、その言葉が真実の時も、嘘の場合もあるのだから、「信じたこと」が、「真実であるとは限らない」ということだ。

昔近くの教会があり、そこのクリスチャンになろうとしたことがあるが、パブテスマをまず受ける必要があった。「貴方はキリストが復活したことを信じますか?」という質問に「はい」「いいえ」で答えるのだが、私は学校教育で「科学を信じさせられた」が、「神を信じさせられた」わけではないので、どうしても「はい」と言えずに、その教会を去った。

では今ならどうか?といえば、「はい」とあっさり答えることができそうだ。その理由は「信じることは事実ではなく、期待する、また希望するということ」だと理解できたからである。期待と希望は「そうあって欲しい」ということであり、それは「願望」「欲望」の範疇に入る。

願望の強弱ランキング付すると、最も強い願望が「信」で、次は「祈」「願」「望(希) 」「欲」になり、一番弱いのが「思(想)」ではないだろうか。

これらの願望は「自からの意志」から湧き起こるものだが、「信心」というように「心」が付くと、愛着のような相手に依存する心が生じ、「自からの意志」は転じて「他(相手)からの意志に従う」ようにもなる。

詐欺にあうと、「騙された・裏切られた」というように、自分が信じた内容と違う結果になるのは、「自からの意志」が「他からの意志」とは違ったということだ。

そのように、「自からの意志」が「他からの意志」に転じると、「依存心」になり、その強弱によって、洗脳・依存症・執着・従属・従順・素直になってくる。

私が「信じる」ことが「希望する」または「期待する」「支持する」と言ったのは、「相手の意志」を「自からの意志」に転じた心を付け足したからである。

親が子を助けるとは、子の意志を親の意志に転じて言うことだ。この最も強い助ける心こそ、「親が子を信じる」ということである。

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