少年時代は日記を書いて、思索してきた。
青年時代に、社会勉強と合わせた思索をしようと、ホームページを作って活動した。それが、やがて、店経営の補助の役割にもなった。
成年時代には、ホームページに掲示板を作って、知らない相手との会話や論争をしたが、それが白熱すると、やたら管理が大変になった。迷惑投稿も頻繁になり、管理しやすいブログに変更した。
老年時代になった今、ソーシャルネットワークのmixiで、社会問題に触れ、そのテーマと合わせてブログで考えるようにした。その場合返事の必要性などの面倒があり、ツイッターという返事が必要がないことと、自由にフォローできるので、必要な情報源と、自由な呟きができた。
一方私のブログは長いので読みづらいという人が多いので、A4一枚で、一テーマにまとめるようにした。
ところが、ツイッターの140文字以内で、コンパクトに伝えるのが、慣れてきて、それが快感さえなる。俳句を書くような楽しみにもなった。Facebookは、友人知人の集まりで、そこに社会的テーマがあるわけでもない、日常の生活の報告が多く、つぶやき内容を日常生活に制限したくなる。
ただ、私の日常はかなり社会問題の感心が高く、ツイッターの呟きを、mixiとFacebookに連動させている。
日記帳から、ソーシャルネットワークとブログの連携に変わったことは、自分の思索が自分の内面から、社会問題に大きく変わったことになるだろう。
とはいえ、社会活動しているわけではなく、ただ言えることは、社会と自分の接点を確認して楽しんでいるように思えることだ。
それにしても、福島原発事故は自分も、世界も大きく変えたことは確かだ。まるで、脱原発が私の生きがいのようになっていることに驚かされる。