To be,or not to be は I do, or I don’t ? 問題だ!

シェイクスピア ハムレット 第三幕第一場

 

ハムレットは父の復讐をするか、しないか?と迷う。

戦って死ぬか、戦わず生きるか?

名誉ある戦死をするか。耐え忍び生きるのか?

武士ならば、

戦わずして生きるよりも、戦って死ね!

人の道ならば

どんな無様でもいいから、死ぬな!生きろ!

こういう迷いは

アメリカに攻められた日本の兵隊や民間人が迷った。

民間人の場合は、敵の辱めを受けるくらいなら自殺しろ!

兵隊なら、降参するくらいなら、自害せよ!

というのが 武士道である。

ハムレットもそうだが、歴史を反省すると

敵に降参して、どんな屈辱をも我慢して生きる道を選んだことの選んだ人の道の方が、より良かったと思える。

 

To be は、I am, You are, He is, She is すべてを含んだ

私の存在、あなたの存在、彼の彼女の存在すべてを含んだ存在そのもののことで、人としての存在である。

このセリフには

I , me: You , you : He, him : She , her  という言葉は一つもない

あるのは

We , us : 我々は(主語)と我々に(目的語)という言葉だけである。

つまり、私の心も、私の肉体も、 聴衆者のあなたの心身も、敵という彼の心身も、オフィリアという彼女の心身も

みなWe と Us という我々の肉体(存在)と我々の心(魂)ということになり、

To be は We are.  to us. 我々が  我々に

not to be は We are not,  not to us  我々でない者が  我々でない者に

ということで、ハムレットは

自分が生きるか死ぬかの選択において迷い

我々が生きるか、死ぬかの選択として、考察し、決断している。

 

ちなみに、我々の主語Weと目的語Usは・・・

我々の身体と心がどちらか、先か、後か?という問いであるから、

これは 鶏の卵が先か、親が先かというという哲学的命題でもある。

これは科学的にDNA解析から、決着しており、親が先で、子が後である。

我々の親は我々の肉体であり、我々の子は我々の心(魂)である。

ハムレットは我々の肉体が我々の心に、問いかけているのであり、

そこで、問題になっているのは、我々の肉体という生死のことである。

我々の心と魂は死なないので、その生死は関係ないからだ。

 

「板垣死すとも自由は死なず」

という名言もそうでしょう。

板垣という肉体は死んでも、板垣が求めてやまなかった自由という心は死なないとおいう意味である。

 

人の生死という問題は、一個人の体の生死の問題であり、

我々全体の肉体ではなく、また個々人の心と魂の問題ではない。

 

つまり、

To be, or not to be  という問題は

To do, or not to do という問題なのである。

しかも それは

I do, or , I don’t   という問題である。

ハムレットの悩みの核心は

父の復讐を 私はするのか、しないか? だけなのである。

復讐をしたとしても、ハムレットは死ぬとは限らないし、

復讐しなくても、ハムレットは殺されるかもしれないということでもある。

それは 生死の問題を悩むとき大事なのは

私は何をするのか、しないのか?

私はどう生きるのか?であり、

「生きるとは何だ?」ではなく「私はどう生きるか?」が核心である。

 

そして、そこに在る先の問題は二つあり、

一つは主語である私の肉体が、

目的語である私の心であり、魂であり、理想である魂に向かって 何を具体的にするかである。

 

二つ目は

敵も味方もなく、私もあなたもなく、彼も彼女もない、

人として 我々という一体感で、考え、行動していくことである、

その場合、必ず、

我々のそれぞれ別々の肉体が、

我々の目的であり目標である、理想や夢(共通の心と魂)に向かって

どう行動していくかが大切である。

我々といった場合、個々人には生死があっても、

我々という人類には生死はなく、生き続けることだけがあるのだ。

 

→参照:ハムレット To be, or not to be, that is the question.

いったいどうしたらよいのか 問題はそこだ
荒れ狂う運命の矢先を
心で受けて耐え忍ぶのがよいのか
それとも敢然と立ち上がり寄せ来る苦難を跳ね除けて
終わらせるべきなのか? 死ぬことは眠ること
それ以上ではない 眠ってしまえば
心の痛みも肉体に付きまとう苦しみも
終わらせることができる
これこそ願ってもないことではないか
死ぬことは眠ることにほかならない
眠ることは多分夢を見ることだ そこにつまづきがある
この世のわずらいから開放されたあとで
死の眠りの中に待っているものはどんな夢か
それを思うと誰もが躊躇する
だから苦しい人生をいつまでも長引かせるのだ
でなければ誰が我慢するものか
世間から浴びせられる鞭や侮り 圧制や権力者の不正
愛を引き裂かれる悲痛 裁判の引き伸ばし
役人どもの横柄さ 立派な人物がつまらぬものからこうむる
屈辱といったことを誰が我慢するものか
短剣の一突きでこれらのすべてから開放されるというのに
こんな重荷を背負い続けて
汗水たらしながら耐え忍ぶのも
死後に待っているものが恐ろしいからなのだ
死後の世界のことは誰にもわからぬ
そこから戻ったものがいないからだ
その不安が人間の決断を鈍らせ
未知の世界よりもいま生きている世界の不正を耐え忍ばせるのだ
余計な心配が人間を臆病にさせ
もって生まれた決断力も
未来への不安を前にして色あせるのだ
こうして壮大な志も
正しい道からそらされて
実現されるということがないのだ (第三幕第一場)
HAMLET
To be, or not to be: that is the question:
Whether ‘tis nobler in the mind to suffer
The slings and arrows of outrageous fortune,
Or to take arms against a sea of troubles,
And by opposing end them? To die: to sleep;
No more; and by a sleep to say we end
The heart-ache and the thousand natural shocks
That flesh is heir to, ‘tis a consummation
Devoutly to be wish’d. To die, to sleep;
To sleep: perchance to dream: ay, there’s the rub;
For in that sleep of death what dreams may come
When we have shuffled off this mortal coil,
Must give us pause: there’s the respect
That makes calamity of so long life;
For who would bear the whips and scorns of time,
The oppressor’s wrong, the proud man’s contumely,
The pangs of despised love, the law’s delay,
The insolence of office and the spurns
That patient merit of the unworthy takes,
When he himself might his quietus make
With a bare bodkin? who would fardels bear,
To grunt and sweat under a weary life,
But that the dread of something after death,
The undiscover’d country from whose bourn
No traveller returns, puzzles the will
And makes us rather bear those ills we have
Than fly to others that we know not of?
Thus conscience does make cowards of us all;
And thus the native hue of resolution
Is sicklied o’er with the pale cast of thought,
And enterprises of great pith and moment
With this regard their currents turn awry,
And lose the name of action.–

 

 

 

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