自由であるということ

 昨日でもっと言いたかったことをここで追加します。

☆自由であるということ

 昨日のテレビで「自由競争は割り当て内ですることが真の自由競争である」と言いました。

自由とは自分が思い通りになる社会という意味です。この自由が無制限に活動できる社会など存在しません。

しかし、今は「お金がないと何もできません」が、これを逆にいうと、「お金があれば何でもできる」社会であるのです。

つまり、資本主義とは金持ちのみが世界を自由に使える社会という意味です。そのため、資本主義における自由主義というのは、金持ちだけが自由になれる世界のことをいうのです。

 世界のほとんどのお金をもった金持ちは65億人の中の100人くらいしかいないでしょう。各国政府は国際的金持ちのいいなりに作られた中央銀行で貨幣を製造し、その金を銀行のみに貸し出し、銀行はその数千倍もの債券を製造し、それを国や企業や国民に貸出、利息つきで、返済させています。 

 国はその金持ちが作った法律で、国民に税金を強要し、金持ちの借金返済にほとんど使うのです。しかし、そうした強要にも、金がなくて、支払えない国民がいます。

 実は、この借金を返済しない国民と、税金が払えない国民こそ、この地球と人類を支えている本当の国民なのです。そうした人が活動しないと、金持ちの金はどんどん少なくなってしまうからです。

 自由とは地球人65億人の一人一人の自由があり、それを社会が保証をする社会のことであり、ほんの数千万分の1の金持ちだけの自由が保障される社会のことではありません。

 まず、自由とは何か? と考えてみませんか。

自由とは生きているということです。

死んだら、自由はありません。

生きているということは何でしょうか?

この世に生まれ、死んでいく人生のことです。

この限られたその一人一人の時間における行動を自由といいます。

そのため、スタートとエンドが、生きること、自由であるということが最も大切になります。

私たちの生まれ以前の世界と死んでいく世界には、人類の区別はありません。みな平等です。しかも、地球に生きているすべての生物とも平等です。これが、自然と人間と生物の基本となる原理です。

 そこから、生まれ出る自我はみな違う姿と環境をもっています。この自我こそ、個性であり、自然と社会から認められた姿であり、もっとも貴重な財産になっているのです。これほどの美しさも、これほどの荘厳さも、これほどの奇跡の存在も、それは永遠不滅の神仏よりもはるかに貴重な存在です。

 宇宙が星で満たされるよりも、人類一人一人の命の輝きで、地球が満たされることの方がはるかに価値が高いのです。この一人一人の命の輝きを保証した社会が自由な社会であるといえるのです。

 もし、地球上で1人の命がゴミくずのように捨てられたら、それは自由な社会ではありません。それが現に2秒に1人行われている資本主義の自由主義社会なのです。これは結果的に、金持ちが2秒に1人同じ人間を殺し続けているということなのです。

 今世界は一瞬で数十万人を殺せる核兵器を廃絶しようとしていますが、その核爆弾よりももっと殺戮する兵器にあたるのが、今のお金なのです。まるで、お金で人類の数を調整するようなものです。その破壊力は年に数千万人、しかも無期限の殺戮がされています。

 人は銃や核爆弾で殺される人たちしか見ていません。お金で大量殺人されている姿をみようとはしないのです。

 このお金の大量殺人兵器こそ、放射能よりももっと消滅期間がながい永遠不滅のお金を生産している中央銀行と、その不滅の金をつかって、その数千倍もの債券を使って、利息と税金という金持ちの作った法律を確実に実行とする多くの銀行によって、大量殺人している実体なのです。

 この永遠不滅の中央銀行債権の大量殺人兵器を廃絶することが、核兵器廃絶よりももっと緊急な課題なのです。

そして、自然消滅する期限貨幣による基軸通貨を元にしたお金をまず人類全体の命を保証するベーシック・インカムをまず実行することが、これからの人類のスタートです。

 そして、人類のエンドもまた、このスタートと同じく、個々人の自由への社会からの感謝の行為がベーシック・インカムのお金の割り当てなのです。

 そして、健全な自由社会とは、65億人がその地域との国その家族の環境に合わせ、かつ1人1人の才能や個性で、自然消滅するお金で割り当てされた最高額の枠内で、自由に生きていることを楽しむ社会です。

 つまり、これからのお金は世界65億人1人1人の自由を保障することができるお金にするということです。

 これは、自然消滅するお金を世界の環境に合わせた人類が永続生存できる生産に合わせたお金の発行金額の制限と、発行されたお金を世界各国とその自治体と、企業体と、その家族に環境に合わせた配分をし、その調整を毎年行い、あとは、その割り当てられた金額内で自由に競争し、自由に生きていく力にまかせることが、本当の意味での自由主義と資本主義社会が実現できるのです。

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自由であるということ への2件のフィードバック

  1. Pika のコメント:

    そうだそうだ!そのとおりだ!

  2. ゴン のコメント:

    >pikaさん
     ご賛同ありがとうございます。
    調子にのって、言っちゃいます。

    「無制限に自由はない。制限があるところに自由がある・
     その制限とは社会における自分の役割(仕事・職業)のことである。
     その仕事で一番を目指そうではないか。
     その道のプロにこそ自由があるんだ!」
     

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