確率や予測は仕事にせず、遊びとしよう

保険屋は病気や事故の過去の確率から算出した商売である。

金融業また金銭そのものも、みなその貸した金額の返済の信用度の確率で成り立つ

事業そのものも、需要と供給の両者の明日の予測とその予測が当たる確率で成りたつ。

だが、

実際の時間の一方通行の特性は明日がすべて100%未知であるので、

過去の延長としての未来の予測確率をしても、社会全体はその確率に近くなっても、

個々人にとってはその確率はほとんど当てにはならないものである。

そのため、予測確率商売は運不運が大きくなり、経済格差は大きくなってくる。

 

過去の経験や学んだ知識や信頼できそうな人を信じて、その明日の確率を当てにして動かざるをえない現実がある。

それは歩くときは一歩先を、走る時はもう10歩先を観ないと、安心して前に進めないからだ。

足元ばかりみていては、自分がどこに向かっているのかさえ解らなくなり、道に迷ってしまうだろう。

また、見えにくいもっと遠く、またもっと上を向いて歩いたら、やはり、足元がふらついておぼつかないだろう。

 

つまり、今の自分にとってどのくらい先を、予測して歩けば、安全かということである。

安心というのは欲望の満足した状態をいう。

そして、予測や確率は満足内の不必要な遊び20%に入るとすれば、その遊びは予測の当たりはずれを楽しむ行為にあたり、その予測がはずれでも気にすることもなく、予測が当たっても有頂天になることもないで、ほんのりと、他人との心の繋がりと会話や交流を楽しむことが、悪事なき不満足状態の予測確率は病的依存症になり、自分にも社会にも悪影響(不健康)を及ぼす。

満足内の不必要な予測遊びは個々人の経験や学習や知識や人間関係に合わせたものになるため、社会的な予測傾向には左右されにくいともいえよう。

日々充実(満足)した予測や確率は遊びの中でやることが健康によく、それを仕事として頼った場合は不健康に陥りやすい。

それは事業や金銭に100%頼った生き方はその秒鉄器依存症になり、それなしには生きられないと勘違いしてしまうので、そういうものは、仕事としてというより、自分の20%くらいの遊びとして捉えて、仕事や金銭にとらわれないようにした方が、自分も社会も健全な方向に維持できてくる。

 

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