明日は未知100%

四次元の時間が一直線ではなく、地球のように回るく巡るものであり、

その流れは水や血液のように一方通行であるようだ。

五次元の意識から、時間を眺めると タイムスリップができるのだが、

時間が誕生と死を巡るような姿から、未来は過去に似てくるが、

時間が一方通行であるために、未来は過去とまったく同じにはならない。

未来は常に未知であり、悟ることができない。過去の事例から予測することができても、それは100%当たることはありえない。

例えば、明日はきっと今日と同じような日になるだろうと予測できても、明日交通事故で死ぬこともあるし、自然災害で家も流され失ってしまうことだってある。そうした例は特例であっても、誰にでも起こり得ることであり、それを予測することは非常に難しい。

しかも、その事故や災害に合う確率は保険屋みたいに、統計的にできることはできるが、その確率にすべての人が当てはまるということではない。それは過去の事故災害があった事例を統計して得られた確率であり、占いと同じで、当たるも八卦当たらぬも八卦であり、当たるか当たらないかの二者択一の五分五分であり、それは社会の平均値や確率とは違う、個々人の自分にとっては、真実100%未知であるということである。

それは多人数の社会においての、平均寿命や事故や災害に合う確率は推計できるが、個々人にとっては、明日死ぬかは生きるかは生きられる確率は0%か100%の二者択一であって、

社会の平均値や確率は単なる参考値や感情値であり、

実際には0か100かの確率であり、平均確率とは無縁であり、

それは明日どうなるかは100%未知である

それが4次元の時間の特質である。

神仏やそれに類似た人が未来を予言しても、それはその時代の単なる社会的感情論であり、

それらを考慮するにはあまりにも時間の本質を無視している。

神や仏のように全知となるというのは、

未来においては当たらず、未来は100%無知不知不悟であるのが時間の特質としての真実であり、

過去においては、どれだけ探求してきたかによる100%未満の真実でしか解らず、

ただ、

今だけは、神仏に限らず人は誰でも全知できる。

それは見て聴いて匂い食べて触って、やってみて そのままの五感と経験を受け入れることである。

その真実を認めるのが全知であり、その真実を認めないのが無知である。

例えば、

戦争で、敵を殺したとしよう。

敵は悪人であったのか? 自分とは違った人間だったのか?

ちょっと運が悪ければ、殺されたのは自分であったかもしれない。

戦争でないときに、その人を殺そうとしただろうか? その人は私を殺そうとしただろうか?

 

この時、自分が生きて、その人が死んだという事実をそのまま受け入れ、

国や社会的な敵味方関係なく自分と同じような人間であったことを認めることである。

 

全知とは今の真実をそのままみな認めるということであり、過去現在未来のすべてを知ることではない。

知るというのは知欲であり、それは食欲性欲物欲と同じ欲望であり、生きるための欲望の一つである。

知欲よりも生きる欲望の方が大きく、

全知とは知欲が満足した状態である。

 

知欲もまた「足るを知る」ことで本当の満足をえることができる。

自分の生活に必要な知欲を満たし、自分に不必要な知欲を明日を占うような遊びとすることで、本当の満足を得る。

しかし 自分の生活には無関係なすべての知欲の不満足はどこまでいっても不満足であるが、

その不満足を認めず、不満足をさも必要な知欲として思い込んでしまうのは、自分を全知全能の神仏と勘違い思い違いしてしまう状態であるといえる。それは単なる知らないことを知っているといると他人に信じ込ませるようなものである。その本人もその信者も、神仏なしでは生きられない病人つまり神仏依存症の患者である。

神仏依存症の人間以外、その他生きとし生けるものすべてに、神仏という言葉も観念がなくても十分楽しく生きているのが真実であろう。

大事なことは

知らないことを知らないと認め、

知っていることを知っていると認め、

どんな予測も当てにならないことを認めることである。

 

明日は未知100%

今日は認知100%

過去は探知確率50%

くらいの足るを知る・・知欲が健康的に丁度いい生き方であろう。

 

今朝目覚め、今日と明日が100%未知であると思う時と、

今朝目覚め、今日と明日は昨日と一昨日の連続した似たような日々になると思う時と

どう違うだろうか?

また、

どんな予想も占いも当てにならないとして、自分の今日と明日を見つめたときと、

社会的事象からの推測からみて、自分の今日と明日がどうなるか予想したときと、

どう違うだろうか?

そもそも人が持つ細胞はみな毎日新陳代謝しているように、

自分自身の心身も毎日新陳代謝していると認めたら、

今朝目覚めた時は、生まれ出た赤ん坊のように、回りの世界を見渡すだろう。

だが、

毎日細胞も自分も新陳代謝せずに、過去が堆積していくように・・

親や周りに

執拗に恐れや快感をもたらされたら、

生まれ出た赤ん坊はしつけされ、条件反射するような心身になって、

回りの社会全体の感情世界と同じような世界を見てしまうだろう。

 

社会や周りの人間の言動に左右されず

毎朝、新しく生まれ変わり、生まれ出た赤子のように周りの世界を見つめることができたら、

今日明日がどれほど快く感じられることだろうか。

 

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