生活の豊かさより経済的金儲けの方を優先することで、
馬鹿げた政策が実行され、暮らしは物質的には以前より楽になってきたが、国際関係や人間関係そして家族の中は争いが絶えなくなってきている。
久しぶりに近くの棚山登山に行ってきた。
以前はその麓のフルーツ公園に散歩に行っていたのだが、公園を歩き回るのと、山登りをするのと、どちらがより癒されるか?
登山の方がより疲れるが、はるかに多く癒される。
フルーツ公園には多種の果樹が植えられているが、それらは観賞用で実ったとしても、取って食べてはならない。もし食べようものなら、盗人扱いになってしまう。
だが、棚山全体に雑木の一部を多種の果樹を植えたら、きっとどんな観光客も動物も同じようにそこで実った果樹を食べて楽しむだろう。
都会の公園内ではホームレスがブルーシートでテントをはって生活しているが、無断使用で強制的に追い出されてしまう。
だが、山奥にテントをはって生活しても、けして追い出されることはない。ホームレスだけでなく、キャンプを楽しむ者、その他の動物もみな巣を作って生活しても、怒られない。
山に入ると沢山の薪があり、燃料にはことかかない。
食べ物はといえば、ドングリがたくさん転がっている。
これらのドングリは苦味が多くて、そのままではとても食べられない。でもスタジイのようなドングリだと、そのままでも苦味がなくてたべられる。
また、栗も少々ながら落ちているので、腐る前に保存しておけば充分食べられる。
つまり、雑木を食べられる果樹に植え替えれば、どんな人も動物もその山の中で豊かに暮らすことができる。
公園の管理にどの位の金銭が必要だろうか?
そこで働く人の給与だって支払うのは大変だ。
だが、山ではそこで暮らすホームレスやキャンプらが自主的に山を管理しないと、持続的に暮らせないので、ボランティアでやるようになるだろう。
観光客を呼び込んで金儲けしようと公園を整備するより、そこにある山で、だれでもが動物と同じく自由に暮らしていけるようにした方がどれほど生活を社会を豊かにすることができるだろうか?
それは意識が経済的金儲けにあるか、生活と社会の豊かさにあるかどうかで、政策も変わってくるのである。