徳島の知足庵における3か月毎の「健康と自然の会」は発足してから、丁度1年になる。
私自身、残りの人生の仕事を「健康であること」として、友人と同じ目的に共感して、その参加理由に、旅と予習復習と思索を楽しんだ。
健康という仕事は3年前からダイエットに取り組み、肥満体重82キロから、現在の60キロになるまで、リバウンドとリダイエットを繰り返しながら、やっと、ストレスなしに今の健康体重59キロ~63キロの間に落ち着いてきた。
実際の仕事といっても、金銭が介入しない畑仕事とくに陸稲の自然農法を成功させることであり、それは7年前から試行錯誤して、なんとか、毎日雑草刈りすればできるという自信が持てるようになった。また、昨秋ドイツから輸入した古代麦が自然農法で、今年豊作であったこともあり、自然農法も落ち着いてきた。
私にとって「健康と自然の問題はある程度一段落したことと、呼応するかのように、知足庵の健康と自然の会も、ある程度の結論がでて一段落し、1周年9月開催が流れ、呼びかけられたのは、来年の2月のモンゴルスタディツアーになった。
「健康と自然」のテーマは、「グローバル社会におけるグリーンツーリズム」のような大きなテーマになってきた。
このテーマの昇華と変更には戸惑いがあり、私自身の中で、「アウフヘーベンしようぜ!」という問いかけが聞こえた。
アウフヘーベンドイツ語の aufheben
auf は on とか up で、上に という意味の前置詞である。
heben は lifting handling hoisting とかで、持ち上げるという動詞また名詞である。
このアウフヘーベンはドイツの日常会話でよく使われるが、それが戦後日本で、ドイツ哲学者ヘーゲルの正反合する弁証法が有名になり、正反する事象の次元を上げて合するアイデアを出すことをアウフヘーベンといい、日本語で止揚また揚棄する哲学用語が流行した。
アウフヘーベン(止揚)の意味は正を花は美しい、反を花は枯れて汚いが、止揚して合が、花は実となる
また、真正面から見ると三角だが、 底面から見ると丸であるが、全体から見ると円錐形である。
弁証法が必要なことは、
群盲象を評すとか、木を見て森を見ずとかいうように、
「物事や人物の一部、ないしは一面だけを理解して、すべて理解したと錯覚してしまう」
物事の一部だけをみて、それが全てだと言い切る争いが絶えず、それが殺し合いの戦争になったりもする。
「みんな違ってみんな良い」 金子みすゞの詩は、
みんな違った一部だけをみた観方はみんな正論である。自分だけが正論だと争うのは群盲象を評すようなものであり、馬鹿げている。みんな違った正論を合わせてアウフヘーベン(止揚)すれば、真実の姿が見えてきて、平和で良い人間が浮かび上がって見えてくる。
「みんな違ってみんな良い」はみんな違った個性を認めて、アウフヘーベン(止揚)して、全体の良き真実の人間を味わう態度を詠っているように思えれる。
内乱があったとき、そこに大きな外敵が攻め込んできたとき、内乱した者通しがまとまり、共通の外敵に立ち向かうということが歴史上よくあることである。
大体、どうでもいいことを争うことが多い現実であるが、そうしたもめ事は群盲象を評す状態であり、それらはより全体的、より次元を上げて、広い視野に持っていくと、平和的にまとまる。
今年8月の知足庵へのラストサムライ道中において、腱引きと柳生心眼流との喧嘩に巻き込まれてしまい、私は怒り心頭して、帰りは車運転手をせず、新幹線で帰宅した。だが、その怒りも二日ほどで治まったのは、自分の中で、両者をアウフヘーベン(止揚)したからである。
「健康と自然」の問題も、もっと大きな「平和」という問題に、アウフヘーベン(止揚)つまり広い視野(テーマ)にすると、より良い真実や人間が見えてきたという実感がある。
自分個人の問題をもうちょっと広くした人間関係社会問題の次元に引き上げると、より楽しい余生ができそうで、
命のバトンも、自分が生まれた終戦時の平和への祈願は時代の魂のバトンにアウフヘーベン(止揚)してきた。
「平和なくして、健康も自然もなし」
それが戦後まもなく生まれた私の時代魂を次世代へバトンをわたす最後のお勤めにも感じてきた。
北朝鮮がいつでも日本で稼働している原発にミサイルを落として、広島、福島のよりももっと悲惨な戦争を起すことだって可能な情勢である。
自分が生まれてきて死ぬまでに、自分ができる平和活動が何かしらあるかもしれない。どんなに些細な予防対策であっても、やりがいがあることのように思える。それが自分の病気予防の健康対策と同じような原理が戦争防止平和対策にアウフヘーベン(止揚)できそうな気もする。