無償の愛 それが辿り着く先は自然の愛だった

やっと モンゴルの旅は終わった。

その土産に 「無償の愛」なるものを 持ち帰った。

命のバトン先を得たのである。

命とは燃え尽きる薪の炎(人生の情熱)のようなものである。

その薪の炎は 新しい薪にバトンされ燃えていく

(人生の情熱は新しい人生の者に伝えられる)

 

いったい、薪というものは火にくべると燃えて尽きてしまうものだが、薪は燃え尽きても火そのものは薪の存在する限り、つぎつぎに新しい薪に伝わって決して無くなるものではない。

それと同じく、人間の生命も個々の人間に関する限り一度は滅び失せるものではあるが、生命そのものは永劫に尽きることのないものだ。

個々の事象にとらわれるところに人間の惑いと悲しみがある。

 

荘子 養生主第三(6)

 

人生の情熱(薪の炎)を恋愛とするならば、

その人生(薪)が燃え尽きる炎は無償の愛また片思いであると言えよう。

 

通常の恋愛は有償の愛また相愛である。

男女が恋愛 結婚 子供が産まれ 家族を育てていく。

これを薪ととらえるならば、夫婦 家族は一緒に燃え尽きる薪であろう。

身体的遺伝子の伝達で、これもまた身体的命のバトンである。

それに対して、

情熱のような精神的生き方の伝達を 精神的命・魂・心のバトンという。

命のバトンといった場合、身体的遺伝子伝達ではなく、精神・魂・心のバトンのことである。

子にない親もいるし、生涯伴侶を持たない人もいる 子がいても親子に生き方が違うものもいる

そういう人の人生もまた、心の命のバトンはできるということである。

会社経営でも、親族経営でもなくても、創業者精神を伝え続けることで その会社が長く存続できるものでもある。

人間は身体と心を分けて考えられるが、魚の鮭は分けがたく、

産まれた川をさかのぼり、そこで産卵し、親鮭は息絶える。

それはまさに、心身の命のバトンしかも無償の愛(片思い)によって、なされ、

自分の命を犠牲にしてまでも 次の命を生み出していくものである。

魚だけでなく、植物も同じである。鳥の実った果物を食べさせ、その種を運ばせる。

そういう心身の命のバトンは自然界では日常茶判事である。

人間のような恋愛(有償の愛)はまるで

「愛するから愛せよ」「これだけ愛すから、その分愛してくれよ」というような恋愛は自然界では奇異な存在である。

もし、

「たくさん愛した人から まったく愛されなかった時」

そこから、愛は憎しみへと 変貌する。そうした、悲惨で惨いDVは愛する人を殺戮するというニュースには事欠かない。

有償の愛は貨幣の貸したら、利息つけて返さなくてはならない。

また、お中元お歳暮、プレゼントをもらったら、お返ししなくてはならない。

それが礼儀とする。

こうした返礼を求める愛はお金の問題と同じく、愛や人間関係においても、狂信じみた喜怒哀楽が展開する。

しかも、法律で、有償の愛を規定して、それに基づいた裁判をする。

そうした人間しかないような有償の愛は 自然の無償の愛に逆らうようなもので、いわば自然破壊の恋愛だといえるのである。

若い時は ずっと片思いを続けて、その一生をささげた無法松は実に寂しい人生だと思っていた。

だが、老境になってはじめて、片思いを続けることの幸福感があることを知った。

それは 宗教的な 男だったら、女神を、女だったら、あのマザーテレサのようにイエスを愛するようなものである。

神様を愛したら、人はどうなるだろうか? ラーマクリシュナ・マザーテレサの青春は輝かしい人生を持てたではないか。

それは愛する行為自体にこそ、その幸せがある。

愛して、愛されなくても 愛されても あまり関係ない。

愛する自体に幸福になる秘訣がある。

それはスポーツでもそうだ。スポーツの試合自体を楽しみ、その試合結果でその楽しみが変わるわけはないからだ。

自分の人生の工程がその充実感があり、その人生の成功失敗はあまり重要ではないのだ。

どんな挑戦をし、どんな人生にすべてをささげたか、どんな情熱を燃やしたかである。

それがどんな結果になるかは、それは誰にもわかるまい。きっと神様だってわからないだろう。

そんなわからないものを期待して、信じて 行うほと疲れるもの、また空しいものもあるまい。

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