自経理灯明 法目的灯明
ようやく いつもの自分一人の生活が始まった。
携帯電話も一日一本もないが それが今日3月26日の午後9時に起きた一時停止違反の件で
警察の担当者とは別の交通課から電話があった。
「どうしてサインしなかったのですか?」
「安全性を考えて、口頭による注意勧告が妥当であると判断し、サインして文書に残す必要がないと判断した」
「なるほど(納得したようす)」
そして、不思議な質問がきた。
「一時停止しましたか?」
「それが記憶にない。左右確認して車が来ないことを確認したことは確かだが・・
警察官が二人とも一時亭しなかったというので、たぶんそうなのだろうが・・
そんなこと、パトカーのビデオカメラの撮影チェックすればわかることじゃあないの?」
「はい、それは確認しました」
で、終わったのだが、何が確認できたのか? ひょっとして、自分が一時停止したかもしれない・・ビデオ判定ではかなり微妙な判断をせめられたのかもしれない。だから、それを確かめに私に聞いたのかも???
妙な疑問が残ったが、
「わかりました。(納得了解しました)」と電話は終わった。
命優先せず、しきたりの「女人禁制」を優先した不祥事があったが、
この警察官も「道路交通法違反のしきたり」を「市民の交通安全」よりも優先したためにおきた不祥事でもある。
そのシキタリや法律や教義そして慣習道徳は
「なんのために成立したか?」
これは この世を 生き抜くためには どうしても その目的を考えて 今の状況を的確に判断する必要があるということである。
「そういう法律があるから」では問題解決にはならなく、より問題を複雑化させてしまう。
「その法律はなんのためにあるのか」から問題解決がケイスバイケイスで即断できるのである。
自らを灯とし 法を灯とせよ
釈迦が入滅する最後の教えであるが、ここでいう法灯明とは釈迦の説く法律・しきたり・教義である。
だが、こう訂正する方が安全に生きられる
「法の目的とするところを灯とせよ」
自らを灯というのも こう訂正する必要がある
「自らの経験と理性を灯とし」である。偉い人がああいったとか、いうのではなく、自分できちんと物事を考えて、判断していくことだ。
まとめると
「自らの経験と理性を灯とし、
法の目的とする灯と照らし合わせて
判断し 安全に確かに生きよ」