終活も雑草化作戦に
穀物・・・古代小麦&蕎麦&陸稲・・・の三者の雑草化作戦は
11月に古代小麦の芽が伸び、4月に蕎麦の芽が伸び、6月の梅雨時に陸稲の芽が伸びる
この三世代が交代で、毎年 自然に、人が何も手を加えずに、花を咲かせ、実がなるように計画した。
まず第一の畑に
第二の畑に
第三の畑に
第4の畑に
その他 通路に
昨年の11月、古代小麦の種を撒くときに、
その麦わらが大量に余っていたので、畑の畝の凹みに敷き詰めた。
それを三角鍬で、掘り起こし、蕎麦種をばらまき、陸稲の種を線撒きした。
そして、足で麦わらを元にもどし、まずは5月に蕎麦の芽が、6月に陸稲の芽がでることを期待して、
古代小麦が実り、枯れていくと同時に、蕎麦が伸び、7月には蕎麦より高く陸稲が伸びるような図を描いた。
そうなれば、理想的であるが、現実はいろいろと予想外のことが起きるので、
失敗したときのために、
蕎麦と陸稲の種を古代麦が枯れ始めたときに、撒けるように残しておいた。
今までは7月に古代麦の収穫と陸稲の種まきを集中してやっていたが、
今年からは、古代麦の収穫も、耕うんして、陸稲の種まきもしないで、そのまま自然状態に放置して観察することにした。
毎年雑草は二交代、三交代して、同じ草が繁茂する。
その雑草の周期に合わせて、古代麦と蕎麦と陸稲を雑草化させる作戦を実行した。
自分がその日に食べる分は、穂の種だけ手積みして、料理 食べるように計画した。
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しきりに こんな言葉が頭に浮かぶ
求めよ さらば 与えられん
求めよとは欲望を持てということだ。
その欲望は自分から湧き出たものであろうか?
いや、それは欲望の本質からいって、違う。
まず欲望の対象がなくては、どんな欲望も起きない。
つまり、
欲望の対象が 自分の欲望を引き起こす。
夢が叶うのではなく、夢そのもの(対象)が、欲望を引き起こし、叶えさせるのである。
登山家
「なぜ山に登るのか?」
「そこに山が在るから!」
求めよ さらば 与えられん
ではなく、
それは与えられるから求める
のである。
与えられん 故に 求めよ
なのである。
穀物雑草化作戦といっても、
すでに どんな雑草も、毎年 三交代二交代して、育っている、
穀物だってもともと雑草である。
そういう事実対象があるから、穀物だって同じに育つだろうという欲望が起きたのであろう。
人は何か 自分から苦労を背負って生きたがっている感じがする。
本来の目的とは別に お金という魔物にとりつかれてしまい、そのお金が目的になってしまうために、
それなしでは生きらえないような お金依存症にかかっている。
農業経営とか、持続する農業とか、農業機械化とか、農薬とか・・
それらはみな農業が目的ではなく、お金経済が目的になってしまうための徒労なことで、
本来の穀物も野菜も、雑草も、同じように彼らが自然に 人間とともに 生きられるようになっている。
その本来の生物共存を目的にすれば、それがもともと自然の姿なので、実現可能であるし、人が何もしないでも、そうなっていく。
そう考え、実行した方が 楽な生き方だろう。
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雑草も穀物も一年が命だろう。
人の命も 平均j寿命80年 として、80年毎に生まれ変わると いうのも、納得がいく自然な出来事である。
どんな雑草も、毎年似たり寄ったりの顔をして生まれ変わるように、人間の顔を80年毎に似たり寄ったりとして生まれ変わると想定しても 自然であろう。
私の残りの13年の就活は
13年後に生まれ変わる準備をするようなものである。
次の若者は老人の魂の親となっていく。親子交代もまた その主従も、生まれ変わりも、命のバトンとして、生命の波のように繰り返され、時に大きく、時に小さく 時に変革的に 打ち寄せては 去っていく。