この68年間の生涯はまさにボランティアから学び、生き抜いてきた現代社会だった。
中学3年の国語の教科書に、ロマンローランのベートーベンのような長編小説「ジャンクリストフ」の一小節に、叔父とゴッドフリートと幼き歌作りを目指すジャンクリストフとのライン川の河原での会話に、私の一生が決まった。
「なんのために勉強するのか?」
「なんのために生きるのか?」
その疑問を老年になった今も問い続けている。
小学1年生の時から、三歳上の兄の暴力と暴言のイジメに苦しめられ、高校2年生までの10年間の家族(社会の最小単位)との葛藤、そこから抜け出す道を柔道の
「柔よく剛を制す」
という精神で、極真空手の兄と柔道の私の喧嘩は高二になったとき、兄の空手をかわし、投げて、抑え込んだ時、家族のボスは弟の私になった。
現代社会、家族の問題解決をするには、自然をよく観察することで、その糸口を見出すことができる。
庭先のいるダンゴ虫は目の前に障害物があったときに、左と右 交互に回りこんで 乗り越える。
どんな迷路であっても、左と右と 回り込んで、それがうまくいかなくなったとき、ダンゴ虫は悩み、自閉症やパニック障害に陥るが、それでも、けしてその迷路から抜け出る挑戦をあきらめないでいると、どんなダンゴ虫でも、いつかはその迷路から抜け出ることができる。
人間でいえば、正 反 合 を繰り返しながら問答していく弁証法のような知恵力である。
弱肉強食というが、それが本当なら、この自然界には強い生物だけが生き残っていることになるが、この地球の歴史を見る限り、地球の強くて大きい恐竜は絶滅しているので、それは違う一面だけのことだといえる。
むしろ、自然は強いものと弱いもののバランスで共存しあっているといえるだろう。
柔よく剛を制すことも、剛よく柔を制すことも、どちらもあり、常にどちらが勝つということはなく、バランスよく、剛柔をくりかえしながら、平和共存しているのだろう。
中三の時の疑問、「何のために勉強するのか?」「何のために生きるのか?」は、私の高校生活を否定し、その答えを追及した結果、その答えを「神仏になるために」という宗教的なものと信じ込んでしまったため、私は精神病院生活を高二高三と送ることになった。
精神病は妄想・幻聴・幻覚の三つが伴い、さらに、その薬の副作用の眠気としびれに苦しまられ、それらの原因である「なんのために生きるのか?」という疑問、また、「神仏を求めること」また、精神病の薬を封印し、逆に普通の社会生活ができる考え方とアルバイトをすることで、病気を克服しようとした。
その闘いは、放浪生活(旅とアルバイト)として、最後に万博で働くことで一区切りを持った。
家出して放浪してアルバイトしていた万博に、両親が心配して会いにきたこともあり、帰宅した。
その後すぐに免許とるため、近くの自動車教習所に整備工として勤めたが、何気なく大学受験してみたら、受かってしまい、「今しかできないこと」で判断し、仕事をやめ大学に入った。
大学はちょうど学園闘争の時代であったが、私は西洋哲学の勉強をしようとした。
だが、一年は基礎勉強で高校の延長、二年は哲学を学ぶための語学が中心の授業にあきあきした。
ちょうど3年になって、授業料が二年分延滞したこともあり、支払った分だけの一年中退にした。
しかし、
私は大学の卒論として、「労働と職業論」の完成と、海外の旅の資金38万円を国会図書館で、アルバイトすることで得た。
封印した「何のために生きるのか?」という疑問は、「働くって何だ?」となり、WHY から WHAT またより具体的な問いかけになっていった。
中退せずに大学卒業にあわせた二年後、ロンドンに旅立った。そして、パリで 映画でみたソレックスという38ccのエンジンがついた自転車を8万円で購入し、そして、ドイツのライン川を下りながら、オランダのワークキャンプに着いた。
14か国、26人の男女が集まり、仕事はオランダのサイクリングロード工事で、20代前後の若者がともに働き、ともに遊び、ともに食べ、ともに住み、ともに生活した。日本人は私一人であったが、英語もできない東欧の人も一緒だったが、その二週間は老年のなるまでで一番楽しかったのである。
それはきっと文化も言葉もちがう人たちが理解しあうことのすばらしさだったのではないだろうかと思う。
そして、ソレックスで、フランスの中央のリンゴ園で2週間のアルバイトをした。
そこも、各国からあつまる青年たちだったが、目的がお金目的であるため、美味しいフランス昼食も労働者談義で、中止になるなど、楽しい気分も、また友達もできなかった。
ボランティアとお金目的で集まるその違いに、「楽しみ」と「つまらなさ」を実感した。
帰国後、「労働と職業論」を実践すべく、自分の好きなジャーナリストになりたくて、10人規模の科学新聞社に就社した。希望の記者の仕事をさせてもらったが、その記者のつまらなさを感じ、むしろ、雑務を改革する与えられた総務の仕事の方が魅力を感じた。
好きな道が自分に適しているとは限らない
やってみて、初めて、その職業が自分に合っているかわかり、また、好きになれるかがわかる
それを体験した。
会社改革に限界を感じ、退社して、両親の店を継ごうとしたが、そこに将来性も生活費もでないことを知り、自分で事業を起こすことにした。
「俺たちの旅」というテレビドラマがああり、学生たちが、「なんでもやります」と自転車にのぼりの旗をあげて、近所を回るという発想をそのまま実行した。
当時便利屋という職業はなく、手探りで、「なんでもや」として、一年ほど活動していたが、ほとんど仕事がこなく、テレビばかりみていた時に、「アメリカの珍商売・・ゴリラメッセンジャー」というのが出てきた。それはおもしろいとして、それを東京新聞の三行広告(3000円)に出したら、仕事はこないで、アサヒグラフという雑誌の記者が取材にやってきた。
一面に大きく記事がのったが、仕事はこないが、他のマスコミが次々取材にきた。
そういうこともあり、便利屋とゴリラメッセンジャーの仕事は入りだし、またアルバイトする学生も集まってきた。
私が働く目的は 一緒に働く人たちが自由に楽しく生きることだった。
便利屋はお客から時給3000円とり、そのアルバイトに時給2000円出すという方式である。
ゴリラの恰好をして結婚式や誕生会にプレゼントとメッセージカードを届ける仕事は8000円をお客からもらい、4000円アルバイトに渡すというシステムにした。
だから、アルバイト料が払えなくて困ることはなく、自宅を事務所にしていたせいか、経費もわずかなので、お金に困ることはなかった。事務所は若者の大学の部室みたいで、そこに寝泊まりや、宴会や議論のたまりばだったのである。
仕事はみな一回性であり、やる人もみな違うという、そういうおもしろさもあった。
私はみなが自由に働く環境を作るために、「フリー社長制度」を作った。その中で、唯一学生時代にアルバイトにきて、卒業後もゴリラ便で働いてくれたOさんがほとんど社長をやってくれ、私は自由に別なことができるようになった。
仕事は自由になったが、恋愛は下手で、つねに片思いで終わってしまい、どうせ「結婚できない」人生ならば、「一生涯結婚はしない」と決心した人生のがいいと思い、40歳で「結婚できない感傷旅行」として、西サモアを旅した。
バスがなくなり泊めてもらった家の18歳の娘さんを冗談で母親に「嫁に欲しい」といったら、「いいよ」とあっさりOkになり、それが現実になった。サモアでは親が娘の結婚を決めることを知らなかったせいである。
日本に連れてきて、二人の現在27歳と25歳の娘も得ることができたが、6年後、国際結婚のその文化と経済環境で、離婚することになり、私一人で育てた。
高校卒業時に封印していた「神仏とは何か?」という疑問を、うちの働き手が持っていた「理性のゆらぎ」という本をつい読んでしまい、22年後にその封印を解いてしまった。
その本はインドの聖人サイババのことが書いてあり、そのサイババの言葉の
「神より家族を大事にしなさい!」
ということで、これは本物に違いないとして、再び「神仏とは何か?」を探求し、すぐにインドのサイババのところにとんだ。
10年も、サイババにすっかり信奉していて、それをメインに活動していたが、「裸のサイババ」という暴露本が出版され、サイババの児童の性的虐待とトリックの神技を知って、調査実験して、それが真実であるとして、サイババの「宗教は一つ、それは愛の宗教」という考え方さえも否定した。
そして、日本の滋賀県に「ありがとうおじさん」が「ありがとうございます」という感謝の心が神だという宗教に鞍替えした。しかし、その教祖ありがとうおじさんもまた、数年後スキャンダル(信徒と性的交わりと、ボランティア信徒が指を怪我したとき、赤チンをつけて「ありがとうございます」を唱えていれば治るというのを実践したが、化膿し、指を落とさざるをえなかった事件があり、彼の「感謝の神」を捨てた。
そして、神仏そのものを捨て去り、自然に生きる道を新たに歩みだした。
長年の宗教生活においてはみなボランティアであり、そこからの収益はないが、生活費は親の遺産相続が、4人兄弟で、次男の私だけにすべて与えられたため、その遺産のアパート収入で、子育てしながら生活できた。
便利屋ゴリラ便からの収益は一度も入ったことはなかったからである。
ひとり親の子育てと私の田舎暮らし希望で、山梨の丹波山村に山村留学をした。
東京の家は壊し、そこを倉庫付き駐車場にし、アパートは自分でリホームして、つくりかえ、モダンなアパートにして、収益をあげた。
「お金はお金で生み出す」
「労働ではお金を生み出すことは難しい」
それが私の一番自然な人間的行為になっていった。
両親が一生涯営んでいた生地屋も、また商店街がシャッター通りになる時代である。
その収益は家賃の10万円を出すだけのための、生活費はまったくでない店になっていた。
ゴリラ便の若手のスタッフに、その店をリサイクルショップとして経営させても、やはり、自分の生活費がでず、ただ店の借り料を払うためのボランティア以下の道楽として自分の貯金をくずして生活せざるをえないので、閉店させた。
そこで、
ネットで経営すること、また、店でモノを売らずに、そこの売り場を貸し出す「フリーマーケット」の店にすることにした。月で借りて、日で貸すという日貸し店舗にした「フリマ笹塚」という店にし、元ゴリラ便スタッフをその店のスタッフにして、しかも、売り上げに準じて、払うゴリラ便方式に切り替えた。一日1万円の貸し料が入れば、3000円の管理料を払う方式である。
もちろん、社長の私はまったく店からの収益はなく、ボランティアとして経営している。
山梨に300坪で900万円の畑付き家を買い、そこで、古代小麦と陸稲と蕎麦と野沢菜を中心に自然農法を研究する道楽を楽しみ、生活費はアパートと倉庫付き駐車場と、国民年金とその基金で、ひとりぐらしには十分な生活をしている。
多くの迷いは、自分とその周りの社会の間で、自由に生きるにはどうしたらいいかという挑戦から生まれる。
こうした迷路のような社会に対して、自由に働き、楽しみ、生きていくには、自然をよく観察することである。
このメダカの迷路もまた、個人(自分)と社会(家族・学校・会社・団体・国・国際・地球)とかかわりあいの中から、自由な世界へと飛び出すにはどうしたいいかを教えてくれる。
集団の中で、勇気を出して、その集団から飛び出る。飛び出ても、「一人じゃいきられない」と不安になるかもしれない、だが、どんな社会も完璧な社会なんかではなく、常に新しい改革が要求されている。そうした中で、集団の中で一人また一人と冒険していくと、いつのまにか、その社会全体の構成員がその後に続いて、自由な世界へと飛び立つことができることを このメダカの迷路は教えてくれる。